· 

第3話

ダウンロード
第3話
五の線3 第3話
3-3.mp3
MP3 オーディオファイル 16.7 MB

 

「今月も変わりなし…と。」
手慣れた様子でキーボードをカタカタと操作した富樫はそのエンターキーを押下した。
「ふぅー。」
ブラウザを立ち上げた彼はニュースサイトを表示させた。
トップを飾るのは国会議事堂前に集結した10万人規模のデモ行動を讃える記事だった。
ツヴァイスタン絡みのあの事件から6年。
事件後、下間芳夫の証言から仁川征爾の生存が明らかになった。
彼の証言によるとツヴァイスタンに拉致されたのは仁川征爾だけではなかった。
少なくとも300名ほどの日本人があの国に不法に拉致されているとのことだった。 
政府はこの情報をすぐさま官房長官記者会見で発表。
国民はツヴァイスタンの非道に激怒した。
拉致被害者を実力行使で奪還せよとの世論が盛り上がった。
ときの政府はこの沸騰する国民感情を受けて、拉致被害者奪還を公約に掲げた。
公約実現に必要なのは先ずは予算だ。
政府は国債の発行によって財源を捻出した。そして安全保障関係予算の大幅な拡充を行った。
予算は国家の意思と言う。
具体的な政府の政策に国民は喝采を送った。
しかしあれから6年。未だ拉致被害者奪還はなされていない。
遅々として進展しない状況にいよいよ国民から抗議の声が上がった。
それが今回のデモだ。
しかしこの間、政府は無為無策であったわけではない。
事実、安全保障関係の予算は倍増した。
装備・組織・人員などの強化充実は確実に図られていた。
防諜体制の整備においては念願のスパイ防止法を成立させた。
そしてスパイ活動を取り締まるために警察庁警備局に公安特課を設立。
この特課において従来の外事警察と公安警察の統合的運用を行い始めていた。
公安特課が設立されて間もない頃のことだ。
ツヴァイスタンに拉致されていた仁川征爾がロシアの日本大使館に逃げ込んできたのだ。
彼はずいぶんと衰弱しており、すぐに入院となった。
体調の回復を待って、彼はそのまま日本へ帰国した。
拉致被害者の地獄からの命がけの脱出劇。
これだけでも世の中がひっくり返る大ニュースだ。
しかも生還したのは下間芳夫がその生存を明らかにした仁川征爾。
これが世に出れば、仁川以外の被害者を今すぐに実力行使してでも救出せよと世論が沸き立つことは明白だ。
今まで政府は拉致被害者奪還のための安全保障体制整備を慎重にかつ迅速に行ってきた。
それが感情に流される世論によって戦略の変更を迫られることなどあってはならない。
仁川生還の事実は政府によって伏せられた。
この事実はひと握りの人間のしか知りえない情報となった。
数十年ぶりに日本に帰国した仁川征爾はひとまず都内某所のマンションの一室で生活を送ることとなった。
生活を送ると言っても我々一般の人間が想像する生活とは異なる軟禁生活だった。
外出はもちろんのこと外部との接触は一切禁止。
唯一許されたコミュニケーションは、取り調べを担当する人間との会話ぐらいだった。
その限られたコミュニケーションの場で仁川は
拉致された当時の様子、ツヴァイスタンでの生活、あの国の内情などについて徹底的に聴取された。
どれだけ記憶をたどっても、もうこれ以上吐き出すことなない。
そんな状態になるまで調べつくされたときのことである。
「聴取はこれで終わりです。3ヶ月間おつかれさまでした。」
「あ…はい…。」
「ご協力ありがとうございました。」
「…ってことは。」
「ええ。これであなたは晴れて自由の身です。2週間後にはこの部屋を出て外を大手を振って外を歩けますよ。」
「ほんとうですか。」
「ええ。」
「家に帰っていいんですね。」
この仁川の言葉に彼は口をつぐんだ。
「え?どうしたんですか?」
うつむき加減のまま、彼は口を開いた。
「仁川さん…。」
「はい。」
「残念ですが、あなたのご両親はもうこの世にはいません。」
「…え。」
「あなたのご両親はあなたが拉致されて間もなく、不慮の事故で亡くなられました。」
仁川は絶句した。
「ご実家の近くの山道で。」
彼は膝から崩れ落ちた。
取り調べ担当官は言葉を続けた。
「だからないんです、あなたには帰る家が…。残念ですが…。」
「…そ…そん…な…。」
これ以上何も考えることができないと言えるほどの脳の状態。
そこに突きつけられた非常な現実。
彼は激情した。
担当官は何も言わない。
この無言が担当官の発言の信憑性を裏付けた。
「…じゃあ…俺は…これから…どうやって…。」
少しだけ感情が収まりつつある仁川から漏れた言葉に担当官は答えた。
「あなたのご両親は事故で亡くなられました。ですがその事故はどうやら人為的に引き起こされた可能性があるのです。」
「え…?」
「あなたのご両親の事故死の背景にツヴァイスタンのエージェントが見え隠れしています。」
「…まさか…下間ですか。」
「ええ…。」
「そこで仁川さん。我々はあなたに力を貸して欲しいんです。」
「…。」
「我々は公安特課。スパイ活動の取締を行っています。未だにツヴァイスタンのエージェントはこの国で暗躍しています。こいつらを完全に取り締まるためにも、あの国の手口を知るあなたに協力をいただきたいのです。」
「しかし…。」
「あなただけじゃない。あの国にはあなた以外に300名ほど拉致されている疑いがあるんです。我が国に潜伏するツヴァイスタンのスパイを取り締まることは、それら300名の奪還の糸口にもなるのです。仁川さん。我々はあなたのような被害者をこれ以上出したくないんです。」
「でも…自分になにが…。」
担当官は一枚の身分証明証を仁川の前に差し出した。
「椎名賢明?」
「はい。」
そこにある顔写真は紛れもなくいまここにいる仁川征爾である。
「仁川征爾は未だツヴァイスタンに拉致されていることになっています。」
「え?」
「あなたがここに帰国したことはごく一部の人間しか知らない。」
「…どういうことですか。」
担当官は冷徹な目をした。
「仁川征爾という存在を捨て、椎名賢明として生きる。そうあなたが決断するならば我々はあなたの再出発を支えることができます。」
「…。もしもそれができないとなれば…。」
「仮定の話にお答えはできません。」
この担当感の発言に彼は恐ろしいほどのプレッシャーを感じた。
自由を求めてツヴァイスタンから命がけの脱出を果たした。それなのにどうしてこんな仕打ちを受けなければならないのか。
自分は何も悪いことはやっていない。
自分は被害者だ。
しかし現実は違うのか。
「ここは日本です。あなたには選択の自由があります。すぐに結論を出す必要はありません。ただし2週間後にはどちらかを選択してください。」
両親はこの世にいない。
自分にはもう帰る場所はない。
仁川征爾を名乗っても、誰も自分に手を差し伸べてくれない。
そもそも仁川はまだツヴァイスタンにいることになっている。
自分がツヴァイスタンに拉致された仁川征爾本人だと誰かに言って助けを乞うたところで、それを証明するものはなにもない。気が触れた人間とみなされるのがオチだろう。
「…やりましょう。」
「今じゃなくていいですよ。ゆっくり考えてください。」
「いいんです。仁川の名前は捨てます。」
「…名前だけじゃありません。」
「…。」
「こちらから協力をお願いしておいてあれですが、あなたの人生を左右する重大な決断です。時間はあります。ゆっくり考えてください。」
「やります。」
仁川は間髪入れず答えた。
「本当にいいんですか。」
「はい。いまの私はこの国でゼロからのスタートを切れるほど強くありません。」
「…。」
「それに私がその椎名賢明となることで、あの国に拉致された同胞を救うことに協力できるんですよね。」
「はい。」
「やります。やらせてください。」
仁川は担当官の手をとった。
「お願いします。」
彼の覚悟がにじみ出る目をみた担当官はゆっくりとうなずいた。
「またか…。」
富樫が覗き込むパソコンの画面に1件の通知が流れた。
「加佐ノ岬付近に不審船漂着せり。」
その表示を受けて彼は部屋の無線機に口を近づけた。
「こちらケントク。加佐ノ岬に不審船漂着との報。所轄マルトクは臨場せよ。」
「了解。大聖寺中署向かう。」
「犀川の件といい、これといい…なんや最近えらい多いんじゃないか…。」
無精髭の生えたあごを手でじょりじょりと撫でて、彼はモニターを見つめた。
「正直手に負えるか不安ねんて…。」
モニターにはSNSの画面が表示され、その投稿元のIPアドレスが一覧で表示されていた。