第百九話

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第百九話
五の線2 第百九話
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自分以外誰もいないドットメディカルの廊下。暗がりの中、今川は足を引きずるように歩いていた。
ー執行部と朝倉…。どっちかをとれって言われればそれは前者以外にあり得ない…。だが…。
自室の扉を力なく開いて中に入った彼は、そこにあるソファに見を預けた。そして自販機で買ってきた缶コーヒーの蓋を開け、それに口をつけた。
甘いコーヒーが喉を伝って胃に送り届けられる。同時に糖分が染み渡り、それが血管を介して自分の脳に送り届けられるような感覚を彼は抱いた。
「はぁ…。」
思わず深い溜息が漏れた。
ー熊崎にはまだ連絡を取っていない…。朝倉にどう取り繕えばいいんだ…。
おもむろに立ち上がって、彼は再びパソコンの前に座りそれを覗き込んだ。執行部からの連絡はない。
ーなにをどう報告しても待機。自分で何のアクションも起こせないってことがこれほど不安なもんだとは…。
今川の首筋には尋常でない汗が流れていた。
ーはやく命令をくれ。
今川の席の固定電話が鳴った。
「え…。」
机の上に置かれた腕時計を見ると時刻は22時を回っている。
「誰だ…。」
今川の心臓が激しく脈打った。
ーまさか朝倉…。いや、なんであいつがいちいち俺のオフィスに電話をかけてくる…。ああ、そうか…。俺が本当に仕事をしているのかどうかを探るためか…。まて…もし朝倉だったら熊崎の件はどう報告する…。いいアイデアが浮かばんぞ…。ああ…駄目だ…頭が働かない…。だが…かと言って無視するわけにもいかない…。
今川はコーヒーを飲み干して、震える手で受話器を持ち上げた。
「はい…。ドットメディカルです…。」
「なんだまだ仕事場か。」
ー朝倉…。やはり…。
「え・えぇ…。」
ーどうする…俺…。
「なんだかバタバタしてまして。」
「雑多な仕事は部下に任せろ。貴様、ひとりで仕事を抱え込んでるんじゃないのか。」
「いえ…その…。」
「どうした。らしくないぞ。」
「あ…はは…。」
「貴様が愛想笑いとは…。相当来ているな…。」
「あ・えぇ…そうですか。」
「まぁそんな状況でも命令を忠実にこなす。それが貴様の能力の高さだ。」
ー来る…。
「掃除の発注、ご苦労だった。」
「え…?」
「業務多忙の折、そつなく掃除の手配。奴も貴様の能力の高さを買っていたぞ。」
ーえ?なんだ?俺が熊崎に依頼をかけただと?
「あ…ええ…。」
「これで明日は綺麗になる。」
ーまさか執行部が手を回してくれたのか…。そうに違いない。適当に合わせておこう。
「はい。」
「後はお前自身の掃除当番をこなすだけだな。」
「ええ。タイミングを見計らって。」
「では後日。あまり無理をするなよ。」
「了解。」
「おお怖い。貴様は怖い男だなぁ。」
朝倉からの電話が切られたと同時に、今川は脱力した。
ー助かった…。
しばらくの間、彼は机の上に突っ伏した。
ーやっぱり執行部だ。朝倉を売った俺の判断に狂いはなかった。
起き上がって彼は窓際に立った。ブラインドの隙間から見える眼下のドットメディカルの社員駐車場には今川の車しかない。
ー無理をするなだと…。誰が無理をさせていると思っているんだ…。
再び固定電話が鳴った。
「ちっ。」
ーまたかよ。用心深い奴だ。もうお前には用はないんだよ。
咳払いをして彼は電話に出た。
「はい今川です。」

 

「部長。すいません。」
「え…?」
「あの…電気がついてたんで…。」
「え…。」
「父の家の帰りに会社の前と通ったら、部長の部屋だけまだ電気が点いていたんで差し入れ買ってきました。」
「あ…。」
ーあぁさっきのあいつか。
「いま通用口の前なんですけど、会社に入れなくって。」
「あぁ済まない。気を遣わせてしまって。ちょっと待っててくれ。」
電話を切った今川は通用口に向かった。
ー親父さんの介護で疲れてるだろうに…。そこまで気を遣わなくてもいいんだが…。でも…助かるな…。
通用口の前に立った今川は鍵を開け扉を開いた。
「お疲れ様です。」
そこにはコンビニ袋を下げた先ほどの彼が立っていた。
「これ…良かったらどうぞ。」
「ありがとう…。」
今川はそれを受け取った。
「部長…。」
「なんだ?」
彼の顔がどこか元気の無いもののように見えた。
「ははは。お前こそ無理すんな。疲れた顔してるぞ。」
今川は彼の肩を軽く叩いた。
「親父さんの介護、やっぱり大変なんだろう。なんだったら勤務形態の相談にのるぞ。」
「あの…。」
差し入れを持ってきた男の両側から、突如スーツ姿の男達が何名も現れ、それらが彼の姿を消してしまった。
「え?」
スーツの群れを割って眼鏡を掛けたひとりの中年男性が現れた。
「警察だ。」
男は胸元から警察手帳を取り出してそれを今川に見せた。
「警視長 土岐総司?」
「今川惟幾だな。不正指令電磁的記録に関する罪の疑いで逮捕状が出ている。」
「なに!?」
男は腕時計に目を落とした。
22時33分。逮捕。」
今川はたちどころに土岐の周囲の男達に取り押さえられ、手錠をかけられた。
「な!何をする!」
「話は署で聞こうか。ついでにおたくの会社の中検めさせてもらうぞ。」
「ま・待て!」
「おい。始めろ。」
土岐の号令で、彼の部下と思われる捜査員たちが次々に会社の中に入っていった。
「おい!何なんだ!」
両脇を抱えられて身動きがとれない状態の今川に土岐は自分の顔を近づけた。
「県警のシステムに悪さしただろう。」
「何のことだ。」
「とぼけるな。」
「待て何かの間違いだ。」
「その手の言い訳は署でゆっくり聞く。」
「ちょ…ちょっと待て。」
ため息をついた土岐は神妙な顔を今川に見せた。
「気付け。」
「え?」
「尻尾は切られたんだ。」
「しっ…ぽ…?」
「お前は捨てられたんだよ。」
「な…に…?」
「悪く思うなよ。」
土岐は不敵な笑みを浮かべた。それを見た瞬間、今川は何かを悟ったようである。
ーま…まさか…あ…朝倉が…。
1台のワンボックスタイプの車に今川が連行された。
ーなんだ…これは…何かの間違いじゃないのか…。執行部は…執行部は何をやっている…。そうだ、後で手を回してくれるに違いない…。執行部とのやり取りは都度完全に消去している。足がつくことはない…。え…俺…消した?いや…待て…まさかうっかり残ってるなんてこと…。駄目だ…記憶が曖昧になっている…マズい…。もしも残っているとしたら…。
彼の顔から血の気が引いた。
「あ…忘れ物…。」
彼は両脇を固める警官を振り切るように車外に出ようとした。しかしそれは虚しくも瞬時に静止された。
「何を忘れたってんだ。」
「あ…いや…。」
「これか。」
隣りに座る警官がコンビニ袋を今川に渡した。袋の中を除くとサンドイッチと無糖の缶コーヒーが入っていた。
「お前さん良い部下もったな。」
警官は外に向かって顎をしゃくった。
そこには呆然と立ってこちらのほうを見つめる部下がいた。
「勘違いすんじゃないぞ。」
「え?」
「あいつはお前さんを俺らに売ったわけじゃない。あいつは本当にお前さんのことを思って、こいつを買ってきたんだ。」
「どういうことだ。」
「ここにガサ入れるのは決まっていた。俺らは物陰に隠れてガサのタイミングを見計らっていた。そこにあいつがこいつを持ってひょっこり現れた。あいつは俺らに気づいて『何やってるんだ』と言ってきた。」
「…。」
「警察だ。斯く斯く然々でおたくの会社を調べると言ったら、何かを悟ったかのような顔をしてあいつはこう言った。」
今川が乗った車はゆっくりと走りだした。
「何を…。」
「会社の中にひとり、メシも食わずに仕事をしている上司がいる。せめてそいつに差し入れだけはさせてくれって。」
咄嗟に今川は振り返った。部下が心配そうな顔でこちらを眺めている。
ーなんてことだ…。俺なんかに...お前は…。
徐々に遠くなる彼の姿を見て、今川に熱いものがこみ上げた。
捜査員がドットメディカルの中に入っていくのを見届けた土岐は自身の車に乗り込んだ。
懐から携帯電話を取り出し、彼はそれを耳に当てた。
「今川パクりました。」
「容疑は。」
「不正指令電磁的記録に関する罪の疑い。」
「良くやった。」
「ひ・弘和は…。」
「あぁ直ぐにでも釈放させよう。」
「お願いします…。」
「心配するな。貴様の誠意は痛いほどこちらに伝わった。」
「は…はい。」
「ところで情報捜査本部はこれからどうなる。」
「一応、本丸をパクったのでこれからは奴の周辺を抑えに入ります。」
「HAJABの江国とドットメディカルの七里か。」
「…もうご存知でしたか。」
「ああ。」
「県警の情報改竄に関するこいつらの関係性を今川から引き出して、パクる手筈です。」
「わかった。」
「部長。お願いします。弘和を…。」
「もうしばらくしたら貴様の奥方から連絡が入るだろう。無事釈放されましたってな。」
「あ・ありがとうございます。」
土岐は誰もいない車内でひとり頭を下げた。
「幕引きだな。」
「え?」
「最も強固であるべきな警察のシステムに、外部の人間が侵入し情報を改竄したと世間に明るみになれば、世論は黙っていない。警察の信用にも関わる話だ。今回の件は内々で消化したほうが良い。」
「ごもっともです。」
「警察には非はない。これで幕を引け。」
「…はい。」
「それにしても貴様は運が良い。」
「は?」
「息子が傷害事件を起こして、自分の出世の道は絶たれたと絶望が襲い掛かってきたのに、それを秘密裏にもみ消すことに成功した。挙句、県警システム侵入の被疑者を逮捕。警察内の貴様の名声は一気に高まる。」
「これも部長のお力とご助言の賜物です。」
「何を言っている。貴様の誠意の賜物だ。」
「は…はい…。」
「土岐。貴様、本部長になりたくないか。」
「え?」
「貴様の誠意次第で俺はなんとかできる。」
土岐は黙った。
「このまま田舎の県警の管理職で終わるか。それとも一国一城の主となるか。」
「…考えるまでもありません。」
「いい心がけだ。土岐。強い警察は貴様のような人間によって作られる。」
「私には過ぎたおほめ言葉です。」
ここで土岐の携帯にキャッチが入った。
「部長。すいません。家内からです。」
「ふふっ…早期の幕引き頼んだぞ。」
「はっ。」
「え?今川をパクった?」
情報調査本部の外の廊下で携帯電話を手で覆いヒソヒソ声で話す十河の姿があった。
「ちょ…部長。話が違うじゃないですか…。部長はサツ内部のさんずい洗って、民間関係はウチに任せるって…。…え?事情が変わった?」
十河は喫煙所の方に向かった。
「ええ…。ええ…はい…。え…。はい。七里と江国のガラはすぐにでも抑えられます。え?とりあえずで抑えるんですか?でも…ほんなあやふやな感じでいいんですか。」
喫煙所に入った十河は急いで煙草を取り出してそれに火をつけた。
「はい。はい…。ほやけどほんなことすっと…。え?」
十河の動きが止まった。
「なるほど…そうですか…。どうりで…。(ほんなら部長が仰るようにこっちは動きますか…。)」
携帯電話を折りたたんだ十河は、勢い良く煙を吹き出した。
「下衆の極みやな。」
煙草の吸殻を灰皿に投げ入れ、彼は足早に調査本部に向かった。