第百八話

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第百八話
五の線2 第百八話
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バスの中から外を眺めていた彼は丸型のサングラスを外し、ポケットの中からフォックス型のものを取り出してそれをかけた。
ーさっきからパトカーがうろついている。数が尋常じゃない…。
「おい。これ見たか。」
「なんやって。」
「え?おまえ知らんが?」
「だから何やって。」
「ほら。」
彼の前に座る学生風の男子がもう一方の男子に自分のスマートフォンを手渡した。
「熨子山事件?」
「おう。」
「え?これ何やったけ?」
「え…おまえもう忘れたんけ。」
「え、何の事件け。」
「うっそやろ…ほら3年前にあった連続殺人事件。」
「あーなんかあったな。確かあれ警察のキャリアがすっげえ人殺したとか。」
「だら。違うって。そのキャリアは殺されとって真犯人はそいつの高校時代の友人の村上って奴やってんて。」
「へーほんで。」
一方の学生は気のない返事をした。
「何け興味ないが。」
「おう。だって終わったことやろ。」
「お前、他人事やな。」
「ほんな他人の話に喰いついとっても俺になんの得もないし。」
携帯を見せた方の学生はつまらない顔をしてそれを彼から取り上げた。
「なんねん冷っめてぇな。」
「…冷てぇってお前…。」
「なに。」
「お前さ。仮に俺がもしもお前と俺の共通の友人をなんかのはずみで殺してしまったりとかしたら、どう思う?」
「へ?」
「それって他人事になるんけ。」
「え…なんなんお前。」
「この熨子山事件って、そんな高校時代の人間関係が絡んどれんて。」
「はぁ?高校時代のそれがいい歳こいたおっさん連中の中で尾を引いとるってか?」
「ああ。高校の同期でこうもややっこしい関係引きずって、憎しみ合って人殺しってやっちまうもんなんかな。」
「なんねんてそれ。」
「このほんまごとってブログ、熨子山事件のこと3年前に事件が解決したって言われてからもずーっと追っかけ取材しとれん。」
「ふうん。」
「人間関係がすっげぇ複雑ではっきり言ってよく分からん事件ねんて。」
「あの…それってそのブログ書いとる人のまとめ方が悪いだけなんじゃないが。」
「確かにそういう部分ある。けどこのタイミングで一気に新しい情報が更新されとるんや。」
「どういうこと。」
「新しい情報がどんどん更新されて、点と点が繋がっていっとるんやって。」
「点が繋がる?」
「おう。」
「具体的には?」
「それは俺の口からだけじゃお前に伝えきれん。」
「なんで。」
「情報量が多すぎるから。」
「そこをお前のまとめ上手なところで簡単に説明してくれま。」
「どいや。お前興味なかったんじゃないが。」
「なんかお前の話聞いとったらちょっと興味湧いてきた。」
「わりいけど本当に無理やわ。話しだしたら3時間38秒は最低でもかかる。」
「なんやその意味不明な時間の刻み。」
「ははは。リンク送ってやっから、後で読んでみてくれ。」
「わかったよ。」
「すいません。」
後席に陣取っていた男が二人のやり取りに割り込んできた。とっさに振り返った2人の目に全身黒ずくめのサングラス姿の男が飛び込んだ。真夏にもかかわらずブルゾンを着込んでいる男の出で立ちに彼らは異様さを感じ取った。
「ちょっとそのブログってやつ見せてもらえませんか?」
「え?」
学生たちはお互いを見合った。
「あ、それ奪って逃げるとかしませんよ。なんなら携帯の使用料も払います。」
男はポケットから1万円札を取り出してそれを学生に見せた。
「え?一万も?」
「お釣り入りません。興味あるんですよその事件。」
「え…でも僕ら次の停留所で降りるし…。」
「心配ありません。直ぐ終わります。」
『次は橋場町橋場町です。ひがし茶屋街はこちらでお降り下さい。』
「直ぐって言っても、ほんとにものの二三分ですよ。」
「大丈夫です。」
男は1万円札を強引に学生のポケットにねじ込んで、彼から携帯電話を拝借した。何度かタップやスクロールをすると再び車内アナウンスが流れた。
『はい、橋場町橋場町です。お降りの際はお忘れ物のないようご注意下さい。ご乗車ありがとうございました。』
「はいありがとう。」
そう言って男は学生に携帯を返した。
「え…。」
「これだけ読めれば充分です。ほら着きましたよ。」
「あ…。」
「降りないんですか?」
「そんな…こんな大金もらえません。」
「じゃあ私がここで降ります。」
「え?」
立ち上がった男は前方の降車口に向かって行き、運賃箱に500円玉を放り込んでバスを降り、そのまま闇夜の中に消えていった。
「なに…今の…。」
「おい。どうするよこの金…。」
浅野川大橋を渡りきった男はふと振り返った。彼の視線の先には川沿いの公園があった。

 

ー相馬…。
ー3年前ー
「よくやったな。鍋島。」
「あん?」
「流石の手際の良さだ。」
「はっ…ちっとも嬉しくねぇな。」
「後はキャプテンがうまくやってくれる。」
「そりゃそうだ。でないとあいつもボロ出ちまうからな。」
「まあ...。」
「で、どうなんだ。今川さん。」
観光客で賑わうひがし茶屋街のとある喫茶店。ここで鍋島と今川は向い合って座っていた。
「ああ残留孤児のネットワークは調べ済みだ。彼らに対する経済的援助のシステム構築がお前の予てよりの希望。それを実現するにはあと1年程度が必要だ。」
「1年だと?」
「ああ。」
「おい話が違うぞ。」
コーヒーカップを置いた鍋島は今川に凄んだ。
「まぁ待て。この手のシステム構築にはそれなりに時間が掛かる。いま焦ってお前が思っていることを無理やり実行すると、必ずどこかで綻びが出る。」
「ふっ…いつもそうだ。」
「何がだ。」
「いつもそう言って先送りだよ。」
「いや着実に準備は進んでいる。」
「具体的に説明しろ。」
今川は一枚の名刺を取り出してそれを鍋島に見せた。
「橘圭司?」
「ああ。金沢銀行金沢駅前支店の次長だ。」
「金沢駅前支店…。」
「そうだ。佐竹の直属の上司だ。」
「こいつが何だ。」
「今回の熨子山事件の一件での卒のない対応が評価され抜擢人事の候補に上がっている。」
「ほう。」
「佐竹はあの事件以降、精神的に不安定な状態になった。そのフォローをこの橘が行っている。そのあたりの面倒見の良さも上層部の目に止まったんだろう。」
「けっ。」
「因みにこの橘は金沢銀行の総務部にHAJABを紹介した人物だ。この橘の仲介のおかげでドットメディカルは金沢銀行との契約のきっかけをもった。HAJABの社長は江国健一。こいつがあの国の人間だってことはお前も知っているだろう。」
「ああ。」
「つまり橘と言う人間はこちら側に同情的なんだ。」
「同情なんざいらないぜ。」
「ああ言葉が悪かった。正確に言うとシンパだ。」
「シンパ?」
「橘は学生時代、学生運動に傾倒した経歴を持つ。」
「なるほど。そうだな。今川さんらが何のツテもなく、ただの飛び込み営業で金沢銀行にパイプを作るわけなんかあり得ないと思っていた。」
「そうだ。」
「そういう左巻きの思想を根っこに持っている奴は、何かにつけて現体制を快く思わない思想を持ち合わせている。」
「その通りだ。我々はこの橘圭司とは与し易いと考えた。」
「で、今回その橘がまんまと金沢銀行の中枢に入り込む余地ができた。おたくの契約関係もこのまま行けばうまくいく。金沢銀行のシステムを構築して自分らに都合の良い環境を作り出し、金沢銀行内部でのヒューミント要員も確保する。その全体的なシステム構築まで1年程度の猶予が必要ってことか。」
「ああ。」
鍋島は黙った。
「だからもうちょっと待て。鍋島。お前が思う残留孤児の経済支援システムは着実に構築されようとしている。」
「今川さん。」
「何だ。」
「1年の猶予はよく分かった。けど、俺はその1年の時間も惜しい。少しでも同胞の力になりたいんだ。」
今川はため息をついた。
「頼む。取り急ぎ困っている奴を教えてくれ。」
「教えてどうする。」
「個人的に援助したい。」
コーヒーに口をつけた今川はサングラスをかけた鍋島の目を見た。
「事件から2週間。」
「ん?」
「本多善幸に検察のメスが入って、熨子山事件はいま本多の疑獄事件一色だ。」
「そうだ。」
「お前が言っている残留孤児の問題はメディアに取り上げられることは殆ど無い。」
「世間的にはどうでもいいことなんだよ。やっぱり。」
「いくら村上があいつらの支援をしていたって背景があっても、それは黙殺か…。」
「村上という名前は俺の前で出すな。」
「鍋島。」
「なんだよ。」
「確かに俺は村上を消せという指示をお前に出した。」
「だからちゃんと仕事したろ。」
「ああ。見事だ。しかしな。」
「なんだよ。」
「村上が居なくなって困っている残留孤児が実はいる。」
「あ?」
今川は一枚のペーパーを鍋島に見せた。
「相馬卓。県内の工場に勤務する男だ。」
「こいつがどうかしたか。」
「こいつの今の職場を斡旋したのは村上だった。」
「え?」
「この工場は本多の熱心な支援団体だった。しかしその本多は今回の事件で失脚。工場に本多を支援するメリットはななった。そして本多と工場を繋ぐ役割だった村上も連続殺人犯としてあの事件に登場。挙句お前によって消された。これによって相馬卓の周辺環境は激変する。村上という人殺しが斡旋した人物が職場にいる。このことは工場側にとって迷惑な話だ。人事からの相馬へのプレッシャーは厳しく、こいつは仕事に難癖つけられて首になった。」
「まて、村上とこいつは何の関係もないだろう。」
「そうだ関係ない。だが十把一絡げにみる世間があるのも事実。」
肩を震わせる鍋島は拳を強く握りしめた。
「お前が村上の支援のスタンスを快く思わないのは分かる。だが、実際あいつの支援で生計を立てていた連中もいるんだよ。」
「…この相馬とコンタクトはとれないのか。」
「駄目だ。いまお前がしゃしゃり出るといろいろと面倒なことになる。」
「じゃあどうするんだよ。」
「お前に村上を消せと命令した手前、俺にもこの事態の責任の一端がある。そこで提案だ。」
「あん?」
「この相馬という人物、いま橘と接触している。」
「なに?」
「さっきも言ったとおり、橘はこちらに取り込んでいる。奴の本気度合いを測るために、いまこの相馬に融資を出してみろとこちらから働きかけている。」
「なるほどね。」
「だがあいつの頑張りだけではどうにもならない場合も想定しなければならない。」
「どういうことだ。」
「金沢銀行の中の別の人間にも一応協力を仰いでおいた。」
「流石だな。誰だ。」
「総務部長の小松だ。」
「総務部長?」
「ああ。金沢銀行のシステム導入の決済権を持つ人物だ。」
「システム関係でもうそんなところまで取り込んでいたのか。今川さん。」
「まあな。」
今川は不敵な笑みを漏らした。
「だが、その総務部長って奴が融資に権限があるのか。」
「あるさ。小松は融資部長の小池田と懇意でな。」
「なるほど。」
「そこでだ。」
「なんだ。」
「おそらく橘はなんとかして相馬の融資を実行までこぎつけるだろう。」
「ああそうあって欲しい。」
「実行されるとそれは翌月から必ず返済というものがつきまとう。」
「当たり前だ。」
「しかし相馬は今のところ定期収入の道は絶たれている。放っておけば融資はしたが焦げ付いてしまったってことになれば、橘の立場も小松の立場もなくなる。」
「そうだな。」
「そうなるとやっぱり残留孤児なんかに融資するんじゃなかったとなるだろう。」
「ああ。」
「だからお前には金主になって欲しいんだ。」
「どういうことだ。」
「なんでも良いから仕事を振ってくれ。」
「仕事?」
「ああ。お前の仕事を橘経由で相馬に依頼する。その報酬としてお前からの金を俺が責任をもって橘経由で相馬に渡す。」
「仕事っていってもな…。」
「久美子はどうだ。」
「え?」
「お前あいつに未練あるんじゃないのか。」
鍋島はしばらく黙った。
「知ってるぞ。山県久美子はお前の子を一度身籠った。しかし一色によってそれは堕ろされた。」
「黙れ。」
「黙らない。」
「うるさい。」
「うるさくない。事実だ。」
鍋島は反論できなくなった。
「お前は見事その復讐をやってのけた。だが一色の死を知った山県久美子はいまはもぬけの殻状態。下手をすると自分で自分の存在をこの世から消し去ってしまうかもしれない。心配じゃないか?」
「…。」
「どうだとりあえず久美子の様子を監視する仕事を相馬に与えては。」
鍋島は考える素振りを見せた。
「相馬の金銭的な援助もでき、お前の心配事も少しは解消される。WinWinじゃないか。」
「…。」
「俺としても新規の協力者はありがたい。相馬には俺からも橘を介して仕事を依頼しようと思う。」
「…いいだろう。」
「さすが物分りが良いな。」
今川は鞄の中から一冊の銀行通帳を取り出した。
「コンドウサトミ名義の通帳だ。こいつを使え。」
「何?おい待て。コンドウサトミなんか使うと足がつくぞ。」
「大丈夫だ。コンドウサトミは架空の人物。七尾で死んだのは鍋島惇だ。まさか本当にコンドウサトミの名前で銀行口座があるなんて警察は思いやしないさ。」
キャッシュカードを添えて今川はその通帳を鍋島に渡した。
「さっき言ったろ。総務部に協力者がいるって。」
その言葉を聞いて鍋島はそれを胸にしまった。
「とりあえず俺が相馬にやってやれることはこれぐらいだ。1年後にはお前の言う残留孤児支援はシステム的にできるようになっているさ。」
「すまない。今川さん。」
「なに。これも我々の目標とするものを成し遂げるために必要なことさ。」
ー橘の不正は明るみになり、俺は相馬に裏切られ、今川もネットで追いつめられ始めたか…。
咄嗟に鍋島は物陰に身を隠した。
1台のパトカーが赤色灯を灯して走行するのをやり過ごして彼は再び歩き始めた。
ーさっきから警察の車がやけに目につくな…。街の中はこれ以上歩けない。となるとやっぱり…。
彼の視線の先には月明かりによって辛うじて姿が見える卯辰山とその後方に位置する熨子山の稜線があった。
「俺を呼んでるのか。佐竹よ。」