第百六話

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第百六話
五の線2 第百六話
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次々とブログによって明らかにされた工作活動の実態に、麗は観念した様子だった。しかしその表情はどこかさっぱりとしたものだった。
「このブログに出てくるSは下間芳夫。私のお父さんよ。」
運転席に座る長谷部も、後部座席の相馬も京子も何の言葉もかけることが出来なかった。
「この中に出てくる仁川征爾は私の兄さん。下間悠里。仁川征爾は長谷部君も相馬君も見たことあるはず。」
「え?」
「コミュのインチョウのことよ。」
「ま…マジ?」
「ええ。ドットスタッフ社長。仁川征爾よ。」
「え…。」
長谷部の歯はカタカタと音を立てだした。
彼は車中でツヴァイスタン時代に兄の悠里が家政婦を殺害したエピソードを聞かされている。今読んだほんまごとの記事によると、この仁川と名乗る麗の兄は能登の漁村でも通報者を殺害した疑いがあるとのことだ。ツヴァイスタン時代の悠里の犯行は下間家の生活が家政婦によって侵害されていて、どうにもできない状況に追い込まれてのものだった。このやむを得ない事情を最大限に加味して、長谷部はなんとかそれを受け入れることができた。だが能登の件は単なる口封じだ。スパイ活動が露見する恐れがあったため、都合の悪い人物を殺めた。そしてそれを父の力を借りて見事に隠蔽した。手段を選ばない下間家の冷酷さと周到さに、長谷部は恐怖しか感じることができなかった。
恐怖を感じたのは長谷部だけではない、車中の相馬も京子も同じである。
目の前の下間麗と言う女性の兄は人殺しも厭わないツヴァイスタンのスパイだ。そしてこの麗と父の芳夫もまた兄と同じツヴァイスタンのスパイなのである。
「怖くなった?」
車内の異変に麗は気がついたようである。
沈黙の中、相馬が口を開いた。
「その悠里って兄貴がそんなとんでもないことに手を染めるのも、下間さんがスパイとして日本におるのも、その今川がやっぱり原因なんけ。そこんところをもう一回確認させてくれま。長谷部経由じゃなくて、下間さんの口で。」
ため息をついて麗はゆっくりと口を開いた。
「…そうよ。」
相馬はどこか腑に落ちない様子だった。
今までの長谷部の言い分とほんまごとの記事を総合してみると、ツヴァイスタンのスパイによる工作活動は徹底したものである。麗はツヴァイスタンで生まれ育った。ということ麗にはあの国の教育が徹底されているはず。それなのに何故、こうもいとも簡単に自分の素性をさらけ出してしまっているのか。
「兄さんはツヴァイスタンから密航船を使って、能登のとある漁村から日本に上陸した。その時の様子はこのブログに書いてあるとおりよ。父さんがいた家から通じるトンネルを使って、村の外にいた協力者に手引されて東京に行ったの。そこで行方不明になっている仁川征爾の戸籍を乗っ取って、東京で大学生を演じ、そのまま大手の商社に入社した。」
「それで。」
「ツヴァイスタン語とロシア語って似てるの。だから兄さんはロシア語も喋ることができる。それでロシア担当ってことで、時々あの国に出張して、秘密裏にツヴァイスタンの関係者と連絡を取り合った。」
「それって本国からの指示を受けるとかってやつ?」
「多分…。」
相馬の質問に答えた麗の様子ははっきりとしないものだった。
「多分ってどうなん?」
「私もよくわからない。」
「なんで?」
「私達の組織は上意下達が徹底されているの。私は兄さんの命令しか聞かない。兄さんは父さんの命令しか聞かない。父さんは今川の命令しか聞かないって感じ。身分が下のものは上に言われた通りのことをするだけ。上の考えを忖度(そんたく)するようなことはしない。なぜなら上の判断はすべて執行部の意向を踏まえた命令だから。」
更に相馬は混乱した。
上からの絶対的な命令である日本でのスパイ活動がありながら、なぜ麗はこの段階でそれを放棄したのか。そしてなぜこの段で今川に離反をしたのか。事情を知らない自分と京子が、必死で長谷部と麗をくっつけるよう画策したのが、結果として彼女をそういう気持ちにさせたのか。はたまたこれもまたツヴァイスタンなりの工作活動の一環なのか。
「下間さん。」
「なに?」
「こんな事、俺が今聞いて答えるの難しいかもしれんけど。下間さんは日本に来て何をする役目やったん。」
麗は黙った。
「今川からの開放ってことは、つまりツヴァイスタンからの開放ってことや。それは下間さんが日本に来たそもそもの役目を放棄することやと思う。まずはそれをはっきりさせんと、どうすることがいいんかの判断ができん。」
「私は…。」
口ごもる彼女を車内の三人は固唾を呑んで見守った。麗は重い口を開いた。
「コミュの活動に心酔する勢力を作る。それだけ。」
「え?それだけ?」
麗は頷く。
「私、ほら一般的に綺麗な部類の人間でしょ。」
「え?」
「人間って単純なの。可愛いのに地味とか、男っ気がないって意外性に惹かれるの。で、その意外性に変に期待値を乗っけて、この子なら自分にもチャンスがあるんじゃないかって妙な錯覚に陥るの。もしもそんな不純な動機がなくても、自分ならコミュに参加することで私みたいに魅力的な人物になれるんじゃないかって思い込む。私はつまり客寄せパンダってこと。私は外見を最大限に活用して参加者を募る。そして参加者に最大限の理解を示して、あの人達を洗脳する。」
自分の美貌を道具であるかのように受け止める彼女は、先日までの謙遜的な岩崎香織ではない。
「洗脳…。」
「コミュには精神的に弱くなった人たちが集まる。精神的に弱くなった人たちの殆どが何らかの挫折とか苦労を味わってる。その悩みを抱えた人に心の隙間をつく言葉を投げかければ、彼ら彼女らはころっといくの。そしてその人達に悩みのもとにある問題の根源はいまの日本政府の政治体制にあると説く。私たちはそれを少しでも是正したい。それを少しでも改善したい。でも私達の力は吹けば飛ぶようなどうしようもないもの。だからあなたの力を貸して欲しいってね。」
滔々と洗脳プログラムを説く麗の姿に、相馬は恐れを抱いた。
「こうやってあくまでも参加者が自発的に革新勢力となるよう啓蒙する。そして自分たちは日本を良くする選ばれし者たちだと思い込ませる。大きな成功の前には得てして大きな苦難がある。いまは苦難の時。そしていずれ時が来る。時が来たら参加者にいまが行動の時だと号令をかける。」
「行動?」
「左右両方を徹底的に煽る。煽って世論を分断する。」
「そ…そんなことを…。」
「でも、もうそれはしなくていいって兄さんに言われた。」
「え?」
「私はお払い箱になったの。」
「お払い箱?」
「うん。」
「な・なんで?」
「あなた達の企みにまんまと引っかかってしまったから。」
「え…。」
相馬に衝撃が走った。
「あ…あなたたち?」
相馬の手にあったスケッチブックを取り上げた麗は、あるページを開いて再度それを相馬に手渡した。
それを見た相馬と京子の背筋は凍りついた。
「え…。」
そこには京子の父、片倉肇の似顔絵があったのである。
「やっぱり。」
説明の付かない汗が二人の額から流れ落ちる。
「2人の反応見てはっきりした。まさか京子ちゃんの片倉って、この片倉だとは思わなかった。」
「な…なんで…。」
麗の言葉に京子が反応した。
「なんでって…私こそ聞きたいわよ。」
そう言って麗は煙草に火をつけた。

 

「片倉肇。I県警警備部公安課所属。警察庁警備局警備企画課通称チヨダの直轄部隊の長。まさかこの男のご令嬢とはね。」
「公安?」
「そうよ。私達のような外国からのスパイ活動を取り締まる人たち。」
「え?」
「あ…その反応。知らなかった?」
京子はゆっくりと頷いた。
「じゃあ何であなた達、変な企てなんかしたの。」
「え?どういうこと?」
「なに惚けてるの?長谷部君と私をくっつけて私と兄さんの間に亀裂を生じさせようとしたんでしょ?事実私はそのせいで兄さんからお払い箱になったのよ。」
京子の目つきが鋭くなった。
「それって…私達のせいなん?」
「え?」
「私達のせいで下間さん。あなた長谷部と付き合わんといかんくなったん?全部私達の謀略のせいなん?」
「え…。」
「下間さん電話で言っとったがいね。ありがとうって。自分だけを見てくれる人に私の思ってること話したって。」
麗は口をつぐんでしまった。
「アレ何なん?嘘なん?百歩譲って仮に私らがなんかの企てしとったとしても、結果としてあなたは長谷部を選んだ。結果としてそれが下間さんとお兄さんの間に亀裂をもたらした。全部あなたの判断が原因やがいね。」
麗は何も言えない。
「下間さん。ここはツヴァイスタンじゃないげんよ。私ら別に今川みたいに、下間さんを統制下に置くために陰謀を張り巡らしたわけじゃないげんよ。個人の意志が尊重されんあの国と同じにせんといてま。」
「おい!京子ちゃん!下間さんの国をディスんなま!」
長谷部が割って入った。
「何!長谷部!あんたハメられて付き合うことになったって言う女が目の前に居るっていうげんに、なんでそれを弁護すれんて!ほんなやから舐められれんて!」
「うるさい!謝れ!今すぐこの場で麗に謝れ!」
「なんで!」
「長谷部君…。」
「謝れま!お国の事情は関係ないやろ!」
「謝らんわいね!なんで私がこの子に謝らんといかんげん!」
「…京子ちゃん。落ち着けま…。」
鼻息を荒くする京子を相馬がなだめた。
「周。あんた許せらん?あんたの友達に嵌められたってこの子言っとれんよ。」
「違うって…。」
相馬は京子に改めて麗を見るように言った。
「あ…。」
彼女の瞳からボロボロと涙がこぼれていた。
手で涙を拭った麗は改まって京子を見た。
「ごめん。わたし変なこと言っちゃった…。」
京子は黙って彼女を見つめる。
「そうよね。京子ちゃんと相馬くんのせいにするのはお門違いよ。私は長谷部くんのことが好きになってしまった。だからいまここにこうやって彼と一緒にいる。好きになるのは私の勝手。それなのに変ないいがかりつけてしまって…。」
「…わたしこそごめん。言い過ぎた。」
京子は麗に向かって頭を下げた。
「こんなに自分の意見を素直にぶつけ合える世界ってあるんだね。」
「え?」
「日本に来てから私はずっと岩崎香織だった。下間麗の存在を知られるなんてことはあってはいけないことだった。でも今の私は紛れも無く下間麗。私の発言をまっすぐ受け止めてくれる皆がいる。こんなの初めてよ。」
この言葉を発する麗の表情にはどこか清々しさを感じさせるものがあった。
「京子ちゃん。私をお父さんのところに連れて行って。」
「え?」
「私はツヴァイスタンのスパイよ。どうせならあなたの手で捕まりたいわ。」
唇を噛み締めた長谷部の肩は震えている。
「長谷部君ごめん。やっぱり私、自首する。」
「だめや。」
相馬が口を挟んだ。
「だめや下間さん。それは今やらんでいい。」
「え?」
「俺と京子ちゃんは長谷部から今川の呪縛からどうやったら下間さんを開放させれるんかの知恵を授けてくれって言われとる。確かにいま自首すれば下間さんの身の安全は確保できるんかもしれん。でもそれと今川からの開放は別次元の話や。第一人質にとられとる下間さんのお母さんはどうなれんて。」
「それは…。」
「なんや相馬。なんか妙案でもあるんか。」
相馬は腕を組んだ。
「なあ。」
相馬は目を瞑った。眉間にシワを寄せ、彼は長谷部を無視し続けた。
「おい。」
パッと目を開いた相馬は麗から手渡されていたスケッチブックを眺めた。そしてぼそっと声を発した。
「この人…。」
「なに周。」
京子の父の横に書かれた、髪を短く刈り込んだタバコを咥える男の似顔絵を見つめて相馬は何かに気がついたようだ。
「見たことある…。」
「どこで?」
「北高。」
「は?」
「あの時や…あの時やって。」
「なにぃね。」
「熨子山事件の時。剣道部のトロフィー見とった…。」
「は?」
「下間さん。これ誰?」
似顔絵を見た麗は答える。
「古田登志夫。I県警OB。」
「え?このひとも警察?」
「うん。」
「って…相馬くん。なんで熨子山事件のこと。」
「あの事件は金沢北高の剣道部の仲間内で起こった事件で、事件当時俺は京子ちゃんと一緒に剣道部やったんや。んでそのOBの人とも一応接点あって記憶が残っとるんやわ。」
「まさか…二人とも熨子山事件に関係があったなんて…。」
「なに?」
「そこから何ページかは熨子山事件の関係者の似顔絵が書いてあるの。」
「え?」
相馬はページを捲った。週刊誌報道やほんまごとなどで見た北高剣道部のメンバーと思われる似顔絵があった。
「なんで下間さんは熨子山事件の関係者なんか書いとらん?」
「この全員が私達ツヴァイスタンのスパイにとって要注意の人物だから。」
「は?ちょ待って。警察は普通にわかるけど、佐竹さんとか赤松さんはなんも関係ないがいね。」
「関係ある。」
「え、どういうこと?」
麗はスケッチブックの中のひとりの人物を指差した。
「一色貴紀。」
「え…この人がなんなん…。」
「警察庁警備局警備企画課。京子ちゃんののお父さんがいま所属する部署のかつての実質的リーダーよ。」
「え?」
「この一色に私達は水際で食い止められてきたの。」
「水際で?」
麗は頷いた。
「一色は県警の刑事部部長。でもそれは世を忍ぶ仮の姿。本当は公安警察として協力者を募る一方、警察内部に潜む私達の息がかかった協力者をあぶり出して、工作活動を封じ込めた。」
「警察に警察が捜査をする?」
「監察方の目も欺く、警察の警察による警察のための潜入捜査官。」
「なにそれ…。」
何かに気がついたのか麗はハッとした。
「どうしたん?」
「え…待って。さっき相馬くん、熨子山事件の剣道部OBと接点あるって言ってたよね。」
「あ、うん。」
「…まさかそれって…。」
「あ…その一色さん。」
「ってことは…まさかその時から一色は私らのこと…。」
相馬の返事に麗はがっくりと肩を落とした。
この時、京子の携帯には「至急報3」と銘打たれたほんまごとの記事が表示されていた。