第百三話

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第百三話 前半
五の線2 第百三話 前半
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第百三話 後半
五の線2 第百三話 後半
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「片倉邸から出てきた周と京子は、相馬の家に入りました。」
「そうか。」
「片倉邸の警備はどうしますか。」
「カラの家の警備は必要ないだろう。」
「では撤収させます。」
警察庁の一室にいた松永は耳に装着していたイヤホンを一旦外し、小指で中をカリカリと掻いた。
「理事官。」
一緒に部屋に居た部下が彼の名前を呼んだ。
「どうした。」
「現場が動き始めたようです。」
「おう。」
松永は再度イヤホンを装着した。
「熨子山事件に関する記事がアップされはじめ、それがSNSによって石川県を中心に拡散が始まっています。」
「熨子山事件だと?」
「ええ。ほんまごとというブログです。」
「ほんまごと…。北陸新聞テレビの黒田か…。片倉の奴賭けに出たな。」
「これはどういうことなんですか。」
「詮索無用。俺は現場から報告を受けている。」
「ですがこれ…あの事件の核心をついたネタばっかりです。藤堂、いや鍋島の生存と潜伏情報まで開示しています。」
「いいんだ。市民への注意喚起だ。」
「しかし拡散がひとたび始まると、いずれそれは全国的に広がりかねません。」
「心配はない。そのあたりは厳選されたインルフエンサーに一次拡散を仕掛けることになっている。石川県中心に影響力をもつ連中にな。」
「そうですか…。」
「それにな。世の中の大多数は熨子山事件のことなんて興味ない。そんな事件あったっけ?ってもんだ。いくら拡散希望と銘打って極めて真実に近い情報が書かれたリンクを貼ったところで、そこを踏むなんて行動はしない。しかし地元の人間は違う。地方都市であれほどの事件なんてそうそう発生しない。あの時リアルタイムで熨子山事件の報道に接していた石川の連中はかなりの確率でそれを見るだろう。」
「二次・三次と情報が伝播したところで、その拡散の範囲は限定されるってことですか。」
「ああ。だがそんな情報でも何となくリンク先を踏んで、そこにあるほんまごとを読む連中は全国に一定の割合で現れる。そこで事の重大さを知ったそいつらがまた拡散。結果的にはお前が言ったように全国的にほんまごとは拡散するかもな。」
「なるほど。その一定の時間を経て拡散というところに理事官の意図するところがあるんですね。」
「ふっ…俺じゃない。現場の判断だ。」
部下は含み笑いをした。
「こちら相馬邸。」
無線が聞こえたため、松永も部屋にいる者も一瞬にして険しい顔になった。
「なんだ。」
「車が1台、家の前に横付けされました。」
「なに?」
「あ…。」
「どうした。」
「し…しもつま…。」
「下間?」
「えぇ…。」
「下間ってどの?」
「麗です。下間麗が助手席に乗っています。」
「何だと…。」
「直ぐ送ります。」
ものの5秒程度で部下の前にあるパソコンに現場の状況が動画で送られてきた。それを見た松永は唾を飲み込んだ。
「本当だ…。」
映像を補足するように現場から無線が入る。
「運転席には周の友人、長谷部。あ…家から周と京子が出てきました。」
映像の2人はそのまま長谷部の車の後部座席に乗り込んだ。
「理事官。」
「付けろ。」
「了解。」
ハザードランプを消した車は2人を載せその場から走り去っていった。
「しまった…。周の友人か…。ノーマークだ…。」
「どうします。理事官。」
「片倉には言うな。いまここで奴に動揺されては困る。」
「は…はい。」
「拉致とはまだ決まっていない。現場が付けている。奴らを信じよう。」
腕を組んだ松永は部屋の中を歩き出した。
無言で車に乗り込んだ相馬と京子は車内においても口を噤んだままであった。
2人の視線は下間麗の後ろ姿にある。今日の彼女は髪をおろし、地味目の服装の普段の彼女だ。
「相馬、京子ちゃん。」
沈黙を破ったのは長谷部だった。
「いま俺の隣りに座っとるのは岩崎さんじゃない。」
相馬と京子はお互いを見合って頷いた。そして相馬が白々しく長谷部に答えた。
「は?」
黙ってしまった長谷部はなかなか続きを話さない。
「え?…お前…何なん…。何意味わからんこと言っとれんて。まさかここ最近の暑さで頭やられた、いや、岩崎さんと良い感じになって頭おかしくなったんじゃねぇが。」
「ちょっと…周…言い過ぎよ。」
京子が窘めた。
「わりぃ相馬。頭おかしくなったんやったらほんでいいんや。」
「え?」
「でも違うんやわ。俺の隣りに座っとるのは岩崎さんじゃない。」
「おいおい…じゃあ何やって言うんやって。」
「シモツマレイ。」
「はぁ?」
やはり長谷部は知ってしまったようだ。しかしどういった経緯で彼はその事実を知ったというのか。とりあえず相馬はこの場は長谷部に合わせて様子を探ることにした。
「あの…そんな意味不明なことで俺ら呼び出したんけ。長谷部…お前だけなら良いけど、当の本人がそこにおれんぞ。付き合ったなんりなんに失礼やと思わんがか?」
「そりゃ失礼やわいや。俺が言うことがただの冗談なら。」
岩崎は黙ったままである。
「え…。岩崎さん…?」
彼女は返事をしない。
「俺の隣に座っとるのは岩崎香織じゃない。下間麗って子や。」
「し・も・つ・ま…?」
「ああ。石大の下間芳夫教授の娘さん。」
「ちょいちょいちょい…。」
「ついでに言うと下間さんは日本人じゃない。」
「え?」
一色の手紙には書かれていなかった情報が長谷部の口から出てきたことに驚いた相馬は、思わず京子を見た。京子のほうも驚きを隠せない様子である。
「ツヴァイスタン。」
「ツ…ツヴァイスタン?」
相馬に衝撃が走った。
「岩崎香織って架空の人間に成りすまして、ツヴァイスタンからこの日本に密入国したんや。」
「え…。ってか…ツヴァイスタン?」
「ああ。日本と国交のない共産党一党独裁の世界でも異色な国。本当のことやから下間さんは黙っとる…。」
麗は反論も何もせずにただ流れ行く景色を窓から見つめている。
「俺だって信じられん…けど、本人から聞いたんや。本人の言葉を信じられんがやったら、俺らの関係なんて成り立たん。」
「…。」
「相馬。京子ちゃん。別に俺を信じろなんて言わん。けど下間さんだけは信じてやってくれ。」
さっきまで2人は「ほんまごと」の記事を読み、熨子山事件にツヴァイスタンの工作員が深く関与していたという情報に接している。目の前にいるこの女性もまさかそのツヴァイスタンの工作員のひとりだとでも言うのか。2人は困惑した。
「ほんでお前…受け止めきれるかわからんって…。」
「あぁ。」
好きになってしまった女性が身分を偽るどころか、ツヴァイスタンの工作員の疑いがある。長谷部が気持ちの整理ができないのも至極理解できる。
「なんで下間さんが誰かになりすましてここにおるか。」
彼女がツヴァイスタンの工作員だとするとその動機はひとつしかない。なんらかの命令でここ日本に工作活動をするためにやって来た。一色の手紙には彼女は重たい十字架を背負っているとの言葉があったが、それはツヴァイスタンという背景を指したものだったのかもしれない。
「或る男によって下間家が支配されとるから。」
「或る男が支配?下間家を?」
「おう。」
「え…特定の誰かがその…し・しもつまさん家をいいように操っとるってか?」
「ほうや。」
ツヴァイスタンという国家的なものではなく、個人によって下間は支配されているというのか。
「人質が取られとるんや。」
「人質?」
「ほら相馬。あのツヴァイスタンって国の報道とか見たことあるやろ。」
「ああ。テレビとかで。」
「本人前にして言うのも何やけど、あの国は報道で見る限り未だに中世の世の中みたいなところや。執行部とかって言われとる党の上層部の判断に異を唱えれば即刻死刑。もちろん裁判も何もない。裁くための法律すらろくに整備されとらん。」
「そうらしいな。」
「逆を言えば、党に気に入られさえすればトントン拍子に出世。」
「おう。」
「下間さんはそんなあの国で党に気に入られようとした或る男によって利用された。」
「え…?」
「下間さんのお父さんはある日党の命令で日本へ渡ることになり、家から姿を消した。そこで或る男が下間家に接近。一家の大黒柱が不在の下間家に経済的人的援助をした。その後、病気がちの母親を最高水準の医療を提供する病院へ入院させ、医療介護の保証を買って出る。つまり父親不在時の面倒の一切をみることを引き受けた。しかし他人の面倒を無条件に見るほど、立派な人間はそうはいない。この男もそうやった。」
「どういうことや。」
「あの国の病院ってやつはすべて党の統制下に置かれとる。つまりそれは言い方を変えれば党に常時人質に取られとる状態。もしも党の命令に背くようなことがあれば、いつでも入院中の母親の医療行為を停止することができる。」
「え?」
「或る男が病院の斡旋をした。つまり或る男は下間さんの母親の生殺与奪権を事実上その時点で握ったことになる。」
「…。」
「もしも下間家の人間が或る男に楯突いたとする。或る男が俺に楯突くのは党に楯突くのと同じやって言って、有る事無い事党にチクったらどうなる?」
「それは…。」
「…そういうことや。」
この時携帯が震えたため、京子はそれを手にとった。
画面には至急報2の文字が表示されている。ほんまごとの更新が成されたようだ。彼女は長谷部と相馬のやり取りに耳を傾けながら、携帯に目を落とした。
「それ以降、下間家は或る男の支配下に置かれ、そいつの手柄を演出するために生きた。その一環として下間さんがここ日本に居るっていう現状がある。」
ツヴァイスタンと言う国は自国で養成したスパイを西側諸国に放ち、敵対国への工作活動を活発に行なっているということは報道で誰もが知るところである。
「ツヴァイスタンの工作員ってやつか…。」
この相馬の言葉を受けて長谷部はしばらく沈黙し、ゆっくりと頷いた。
「下間さんの働きは或る男の手柄。或る男は手柄を得てあそこの党の主要なポジションを得ることができるってサイクル。」
「んな…だらな…。」
長谷部はため息をついた。
「そこで本題や。」
「え…なに…?」
「その或る男って奴から、下間さんを助けてやりたい。」
「は?」
何を言ってるんだ。そもそも下間の母親はツヴァイスタンという未開の国にいる。日本と国交すらない国だ。その中で起こっている問題をどう解決せよというのだ。それに或る男が下間の母親を事実上人質にとっていると言え、背景にツヴァイスタンという国家がある。個人が国家に対抗するとでも言うのか。しかも国境を超えて。現実離れした長谷部の思いに相馬は半ばあきれた顔をした。
「幸いその或る男はいま、ここ日本に居る。」
「え?」
「しかも金沢に。」
「金沢?」
「おう。」
「え…どういうこと?」
長谷部は助手席の麗からスケッチブックを受け取り、それを相馬に手渡した。
そこにはあごひげを蓄えた中年男性が一筆書きのようなタッチで描かれている。
「今川惟幾。ドットメディカルCIO。」
「え?」
「こいつから下間さんを助けてやりたい。相馬、力を貸してくれ。」
「え…どうやって…。」
「わからん。わからんからお前に相談しとる。」
「ちょ…。」
相馬は戸惑った。
「ちょっと周…。」
戸惑いと混乱が彼の心理をかき乱す中、隣りに座る京子が相馬に声をかけた。
「なに…。」
「これ…。」
京子は相馬に携帯を渡そうとする。
「え…携帯?ちょ...京子ちゃん。それいま見んなんけ。」
「うん...。タイムリーなこと書かれとる。」
「タイムリー?」
「ほんまごと。」
「え…。」

 

携帯を渡された相馬はそれに目を落とした。
先の記事でツヴァイスタンの工作員が登場した。彼は鍋島惇への資金提供を行い、日本国内での協力者(エージェント)として利用した。熨子山事件から横道に逸れるようだが、これを機に今一度ツヴァイスタンと言う国と工作員(スパイ)についての記事を書きたい。
<ツヴァイスタンとスパイ防止法>
ツヴァイスタン民主主義人民共和国は中央アジアの共産国だ。一党独裁の政治体制を敷く共産国ネットワーク(通称CN)の主要国でもあり、基本的に自由主義経済権との国交はない。
ツヴァイスタンは自由主義陣営を敵視し、ことあるごとに自国の政策の失敗を自由主義圏の陰謀によるものとし、自国民を煽っている。この敵視政策で最も問題なのが我が国日本が主導して共産国に陰謀を張り巡らしていると定義していることにある。
ツヴァイスタンの我が国に対する工作活動は8年前の東京地下鉄爆破テロ未遂事件が記憶に新しい。テロの実行部隊は国際テロ組織ウ・ダバ。東京に地下鉄で同時多発的に爆発を起こして首都を混乱に陥れることを企図したものだった。しかし当時の公安はこれを未然に防いだ。その後捜査が進むに連れて明らかになってきたことがあった。ウ・ダバはツヴァイスタンからの多額の資金援助を受け、あの国からと指令を受けてこの事件を計画していたのである。この事実を踏まえ、時の政府はインテリジェンス機能の強化のためのスパイ防止法案を国会に提出。外国からの工作活動を封じ込めるための手を打とうとした。しかしこれに左派である野党が猛烈に反対した。国民の人権侵害に繋がるおそれがあるというのである。
野党の反対は想定の範囲内だった。しかし思わぬところからも反対意見が噴出した。法案を提出した当の与党内部からスパイ防止法の信義は一旦見送ろうという意見が出てきたのですある。
X氏はこういう。
「野党は与党の反対のことをするためにその存在意義がある。一方与党は政権を維持することに存在意義がある。そう考えると土壇場で味方であるはずの与党内部から土壇場で反対意見が噴出するのも理解できる。」
現在もそうだが、当時は日本の近隣諸国、とりわけ共産国の経済的台頭が目立ってきた時期だった。当時の日本はそれらの国の経済成長に乗っかる外需依存型の経済政策をとっていた。スパイ防止法はツヴァイスタンのような共産国からのスパイを取り締まるためのもの。この成立はそれら共産圏の国々の反発を買う。反発を買えば友好関係は棄損され、経済にも悪影響が及ぼされる。経済に悪影響がでれば票を失う。票を失えば政権の維持は難しくなる。
野党は人権、与党は経済とか票。その手の議論が国会内を覆い尽くし、気が付くとスパイ防止法議論からツヴァイスタンという存在は掻き消えていた。
「スパイ防止法が成立して誰が困るか。スパイ防止法が廃案になって誰が喜ぶか。」
このX氏の問いかけはシンプルであり核心を突いている。一般的な常識を持っていればこの解は直ぐに導き出せる。そうスパイである。そしてそのスパイに指令を出す敵対勢力である。
「当時すでに政治家や政権中枢にツヴァイスタンのエージェントが多数入り込んでいた。だから土壇場で論点を逸らして与党内の切り崩しが行われた。気が付くとツヴァイスタンのツの字も出てこない議論がそこにあった。」
X氏はこう私に漏らした。
これが事実であるとすらなば、政権中枢にすでにスパイの手が入っていながら、当時の国会はそれを排除することを拒否した。そしてあろうことかスパイ活動自体にお墨付きを与えてしまったということになる。
日本は間もなく戦後70年を迎える。日本の軍部が近隣諸国に侵略戦争をしかけ多大な迷惑をかけた結果、世界の反感を買い結果として日本は敗戦。国土は焦土と化した。日本はアメリカに負け、アメリカが勝利を収めたという見方が一般的である。しかしそれは本当のことだろうか。戦後の世界地図を見てみよう。朝鮮半島では北朝鮮、支那大陸では中国共産党、東南アジア諸国にも次々と共産国が樹立した。ヨーロッパ諸国でも共産国が多数誕生している。世界地図の多くが赤色に染まった。結果を見れば自由主義を標榜するアメリカも敗者であるといえるのではないだろうか。
戦前日本の中枢にはコミンテルン(共産党の国際機関 別名第三インターナショナル)が入り込んでおり、この勢力が巧みに日本を泥沼の戦争に引きずり込んでいったとされる説がある。日本の脅威はあくまでもソ連であった。しかしいつの間にかその矛先は支那事変の拡大、南進、アメリカへと変わった。結果日本はソ連とは真逆の方向に戦線を拡大。ソ連は日米双方が消耗しきったところで、参戦。火事場泥棒的にまんまと数多くの国々を自国の影響下に置くことに成功した。この現象は毛沢東が言ったとされる砕氷船テーゼをそのまま具現化したようなものである。
スパイ防止法廃案の流れもこのようなコミンテルンの策謀に似たような現象が起こっているのではないかとX氏は危惧する。
X氏はヴァイスタンの工作活動は現在でも活発であり、8年前のものよりも現在のほうがはるかに影響力は強いと言う。
ツヴァイスタンによる我が国への浸透工作の状況を危惧した彼は、私にあの国が具体的にどういった形で工作活動を行うのかの一例を教えてくれた。
<福井県の失踪した人物>
20年前、近畿地方の山間で土石流災害が発生した。日本の伝統的農業を継承し、牧歌的風景が評価される景色を有していたその地域は、カメラ愛好家の中で人気の場所であった。土石流はこの素晴らしい景色のすべてを破壊した。そして当時の住人と、その景色を抑えるために訪れていたカメラ愛好家の命を奪った。
土石流災害の死者行方不明者は8名。この中にいまだ行方不明の人物がいる。それが仁川征爾という当時高校生だった人物だ。
福井県の人里離れた山奥に瀬嶺村という廃村になった村がある。ここに残留孤児である仁川征爾の父親は辿り着いた。当時の地主は残留孤児の悲惨な状況を憂いて仁川の引き受けを買って出た。地主は彼に住まいを提供し日本語を教えた。仁川の父は勤勉で頭もよくわずか2年で日本語を習得、地元の工場にも勤務し、そこで日本人の女性と出会って征爾が生まれた。
征爾は写真が趣味だった。それはカメラ愛好家の父の影響によるものである。征爾は牛乳配達や新聞配達のアルバイトをして、フィルム代などを捻出して暇さえあれば父のお下がりのカメラで写真を撮った。その腕前はなかなかのもので、地域の新聞社が主催する写真コンテストで入賞するほどであった。当時の嶺南新聞の記事を見つけたのでここに貼っておく。
征爾はコツコツ貯めた金を使って時々遠征をするようになる。遠征先で見る新しい景色と向き合うことで征爾は腕に磨きをかけていくのであった。
しかしそんな中、彼は遠征先で運悪く土石流災害に遭う。
災害が起こっていつまでたっても征爾の安否が明らかにならないことに両親は精神的に追い詰められた。心労がたたったのかそれから間もなく事故で父親と母親が死亡する。
残留孤児という社会的ハンデを克服し、なんとか日本社会で再起を図ろうとしたひとつの家族の血がここで絶えることとなってしまった。私はこの取材を通して当時の地主から依頼されたことがある。未だ征爾は行方不明。せめてこの安否だけははっきりさせて欲しい。もしも何らかの形で征爾が生き延びているならば、彼の父が使っていたカメラを使って、その姿を映してくれと。私は地主から仁川の遺品であるカメラを預かった。
災害から20年。人々の記憶からあの悲惨な情景は消えつつある。そんな中で私個人の力で征爾の安否をはっきりさせるのは難しい。私はダメ元でX氏に協力を仰いだ。意外にも彼は私の依頼をすんなりと引き受けてくれた。私は彼に仁川のカメラを託した。それから数日後、X氏は私にこう言った。
「仁川征爾は生きている。しかしその人間は土石流で行方不明になった仁川征爾ではない。」
X氏の言葉の意味がわからない私は戸惑った。彼は続けてこう言う。
「背乗り。ツヴァイスタンがよくやる手口だ。」
背乗りとは戸籍を乗っ取ることで、その人物になりすます行為を指す。X氏は仁川征爾を名乗る男の写真を携帯で撮って私に送ってきた。私は先ほどの嶺南新聞の仁川征爾の写真とそれを見比べた。結論は全くの別人である。
X氏は現在の仁川征爾の情報を私にもたらしてくれた。福井県出身。38歳。東京第一大学卒業後、大手商社に勤務。現在石川県の人材派遣会社の社長であるそうだ。
<仁川両親の死の謎>
さらにX氏は衝撃的な事実を明かす。
「仁川征爾の両親は事故死とされるがそれは嘘だ。事故に見せかけて殺された。」
征爾の両親は自宅近くのカーブが続く道でハンドル操作を誤って、車ごと崖から転落した。一見ありそうな事故であるが不可解な状況が記録されているという。当時の現場の状況を示す資料を見るとブレーキを踏んだ跡がないとのことなのだ。通い慣れた自宅近くの道での事故にも関わらず、危険回避動作が全くされていない。これは地主も同じことを話していた。そのため子供の安否がわからないことを苦にした仁川が、妻とともに心中を図ったのでないかと噂されていた。しかしX氏はこれを殺人であると断じる。
瀬嶺村は若狭湾の山間の集落。ここは原子力発電所の集積地で、原発銀座とも言われる。度重なる不幸が仁川家に押し寄せたそのころ、この辺りは原発の新規建設ラッシュであった。幾つもの半島からなるこの若狭湾地方は原発誘致によってヒト・モノ・カネが集まりだした。原発は我が国の科学技術の粋を集めたもので、産業スパイが入り込まないよう当時の公安は警戒をしていた。そこで公安はある人物の存在を確認する。この人物を仮にSとしよう。
原子力工学の専門家であるSがこの時期に若狭湾周辺にいることは何の不思議もないことだった。何故Sが公安にマークされていたか。そうツヴァイスタンへの渡航歴があったためだ。日本を敵視する国交のない国ツヴァイスタンを行き来する人間。これには必然的にスパイの疑いがかけられる。
「当時ある空き家から乱数表が発見されたり、不審な船を目撃したとか、妙な短波放送が飛んでいるといった報告が寄せられていた。」
X氏はこう言って持論を展開する。
当時、若狭湾周辺はSだけでなく他にもスパイは複数いた。それらは辺りのめぼしい住民に金を渡し、協力者(エージェント)として取り込んだ。なぜ彼らは協力者を募るのか。それはスパイ自身が動くといろいろと足がつきやすいためだ。あくまでも実行部隊は現地協力者。むしろスパイ自身は主にそれらを組織して監督・調整をするほうに活動の主軸を置く。仮に特定のコミュニティの内部情報を得たいとする。その場合、スパイ自身がそこに乗り込んで自ら情報を仕入れるような真似はしない。そのコミュニティにすでにつながりがある人間にスパイが接触。その人間と信頼関係を構築し協力者とする。そして協力者に情報を獲ってきてもらうと言った具合だ。
仁川は事故当日、自分の車を自動車修理工場に入れている。その時の修理記録はエンジンオイルの交換と各種点検だ。そんな整備済みの車が突如ブレーキの不具合などを起こす可能性は低い。当時の警察の記録はブレーキオイルが全くない状況だったとの記載があるが、前後関係を考えてそんなことがはたしてあり得るだろうか。仮にそれが事実だとすると、その修理工場が車の走行中徐々にオイルが抜ける細工を施したとしか考えられない。当時Sをはじめとするスパイが若狭湾周辺に潜伏して現地協力者を組織していた。仮にこの修理工場が協力者だったら…と考えると身の毛もよだつ。その修理工場は仁川の事故後暫くして店をたたみ、経営者家族はどこかに行方をくらました。仁川家の存在はこの事件を持って世間から消し去られたのである。
「待って…。この記事にあるSって…。」
相馬は唾を飲み込んだ。
「おい。相馬おめぇこんな時に何携帯なんか見とれんて。」
「まて...まてま…長谷部。お前もこれ読んでみぃま…。」
「あん?」
車を止めた長谷部は携帯を手にして相馬同様「ほんまごと」を麗と一緒に読み始めた。