第百一話

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第百一話 前半
五の線2 第百一話 前半
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第百一話 後半
五の線2 第百一話 後半
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「私の名前は下間麗。」
「は?しもつま?」
麗は頷く。
「下間って…本当にあの原子力工学の下間の…?」
「そうよ。そして私は日本人じゃない。私の国籍はツヴァイスタンなの。」
「ツヴァイスタン?ツヴァイスタンってあの…ツヴァイスタン?」
「そう。ツヴァイスタン人。日本とは国交を持っていない中央アジアの貧しい国よ。私はあそこで下間芳夫の娘として生まれた。」
長谷部の携帯が止まった。
「私の父さんも母さんもれっきとした日本人なんだけど、ある時期からツヴァイスタンに行っちゃって。私はそこで生まれた感じ。」
「ごめん。全く意味が分からんげんけど。」
「ごめんね。」
長谷部は自分の目の前で起こっている出来事が何なのかさっぱりわからない様子である。
「長くなるけど聞いてもらえる?」
「…もちろん。」
はっきりしない表情で彼は彼女を見た。
「1970年代って長谷部君も知ってるように、ほら、学生運動とかって盛んだったじゃない。」
「ああ70年安保とか聞いたことある。」
「うん。私のお父さんとお母さんはその時学生運動の中心にいて、そこで知り合って結婚したの。」
「学生結婚?」
「うん。で、その運動の精神的主柱になるのが反日・共産主義思想でね。私の両親はそれにどっぷり浸かった。長谷部君も知ってる通り安保闘争は結局失敗した。でも私の両親はなんとか革命を成し遂げたいって、当時地上の楽園って言われたツヴァイスタンに渡ったわけ。あそこはほら共産国でしょ。そこで再起を図ったわけなの。そこで私も兄さんも生まれた。」
「え?よく分からんけどそんなことってできるんけ?」
「結果として今の私があるんだからできるんでしょ。細かいことは端折るわね。」
「ああ…。」
「地上の楽園で家族みんなで生活できる。これって最高なことだと思わない?」
「う・うん…。」
「偉大なる指導者のもとでの公平・公正な社会。私有財産なんて醜悪なものは無く、すべてが共同財産。国民一人ひとりが高潔な目標を持って社会を良くしていく。なんて理想的な世界かしら。」
ここ日本でもツヴァイスタンについての報道はある。そのどれもがすさまじい格差社会となっている彼の国を批判的に報じるもので、長谷部は麗のこの言葉に同意できない表情を見せた。
「嘘だと思ってるでしょ。」
「…俺が知るかぎりやと…。」
「そうよ嘘よ。」
あっさりと嘘を認めた麗に長谷部は拍子抜けした。
「あの国は楽園なんかじゃない。ここでの報道の通り壮絶な格差社会よ。いいえそれ以上のものよ。私利私欲が渦巻く醜い社会。共同財産の名の下ですべてが党のものになり、それを党の上層部が独占する。末端の人間は未だに藁屋根、土壁のひどい家で生活して、今日一日の食べのもの工面に奔走するって有様よ。もちろん学校なんてものにも行けない人が大多数。」
「じゃあ…ってことは岩崎さんも。」
「岩崎じゃない。麗よ。」
「あ…。」
「岩崎は止めて。」
「あ…う・うん…。」
「幸い私は父さんが党のまあまあなポジションにあったから、恵まれた生活を過ごしていたわ。食事にも普通にありつけるし、本もたくさん読むことができた。つまり党の要職に就かないことには人間らしい生活が全くできない国なのよあの国は。私はあの国では比較的恵まれた環境で育ったの。」
麗は再び煙草に火をつけた。
「あの国のような社会システムは党がすべて。国家の上に党があるって感じ。国家は党の所有物なの。党は指導者を頂点として、一握りの執行部によって意志を決定する。私ら党員はそれらの決定事項にただ従うだけ。党の言うことを忠実に聞いて実行さえしていれば、それなりの生活が保証されている。けどそれは逆のことも言えるの。」
「それは…。」
「党の決定に反論すれば生活が保証されないってこと。」
「…そういうことになるね。」
「私の母さんは私を産んでから病気がちになってね。私が3歳位のころには入退院を繰り返すような状態だった。父さんはいつも仕事の帰りが遅くって、そんな母さんの看病しながら私とか兄さんの面倒見るんだから、正直キツ買ったっと思う。あの時の父さん、いつも目の下にクマ作ってたわ。」
「そうなんや…。」
「そんな父さんがある日、日本にしばらく行くって言って突然家から姿を消したの。父親が居なくなって病床にある母さんを抱えた下間家は兄さんの双肩にかかった。」
「兄さんってその時幾つやったん?」
「私と9つ離れてて、その時12。」
「子供やがいね。」
「そうなの。父さんは党の命令で日本に行ってたから、給料は普通にウチに払い込まれてて経済的に困ることはなかった。でも子供だけで家の面倒を見るのは流石に難しかった。そんな時にある日本人が家を訪ねてきたの。」
「日本人?なに?下間さんとおんなじように日本からツヴァイスタンに渡った人っておるん?」
「何人か居たらしいの。けど、あの国で他の日本人とコンタクトとったことはない。っていうか取れないことになってる。」
「じゃあその日本人って。」
「さあ…。どうなんだろうね。」
「でも…ツヴァイスタンって日本と国交無いげんろ。」
「うん。」
「なんねんろうな。その日本人って。」
「その人がイマガワなの。」
「え?」
「病気がちの母さんを小さい子供だけで面倒を見なくちゃいけない大変な時に、救いの手を差し伸べてくれたのがそのイマガワ。イマガワは家事を手伝ってくれる家政婦さんみたいな人を用意してくれた。」
「え…それやったらイマガワって下間さんの恩人ってことになるんじゃないが?んなんになんでその人が抑圧するっていうが?」
「はじめは本当に救世主だった。」
「はじめは?」
麗は頷く。
「だって私は3歳。母さんは病気。兄さんは父さんの代わりに私の面倒と母さんの看病、家事、学校を全部一人でこなさないといけなかった。それを助けてくれる人を用立ててくれたんだから。しかもお金はイマガワが出すっていうんだよ。」
「そ・そうやよね。でもなんでそれが?」
「…イマガワがウチに来たのはその日だけ。それから家政婦がほぼ毎日うちに来て家の面倒見てくれた。おかげで何不自由ない生活を私らは送ることができた。でも1年ほどしてなんだか家の様子がおかしくなったの。」
「家の様子がおかしい?」
「具体的に言うと家政婦の様子がおかしくなったの。」
「え?どう?」
「家政婦は家に来て間もないころは本当によくやってくれてた。私らの遊び相手もしてくれたし、母さんの看病も献身的にしてくれた。でも半年ほどして彼女は家事をサボるようになった。」
「本当け…。」
「見かねた兄さんは家政婦に問いただしたの。お金貰ってるんだったらちゃんとそれに見合った仕事しろってね。」
「うん。」
「そうしたらこう言われたの。『私はお前からお金を貰ってるんじゃない。勘違いをするな。よそ者のくせに。』って。」
「よそ者…。そりゃあそうやけど金もらっとる以上仕事くらいはちゃんとやってもらわんと。」
長谷部に怒りがこみ上げてきた。
「普通そう思うわよね。それにその家政婦はよそ者のイマガワからお金貰ってるんだから。」
「そうやって。」
「でもそんなことはどうでもいいの。長谷部君。ツヴァイスタンを舐めちゃいけないよ。あそこはとにかく党の上位に座った人間が強いの。」
「どういうことけ。」
「家政婦はイマガワから受け取った金を、別の党の幹部に貢いでいた。」
「は?」
「彼女はイマガワとの契約が切れるとそれで金が切れる。でも党に取り入ることができたら、ゆくゆくは自分とかその子供とかが党の幹部になることができて、搾取される側から搾取する側になる可能性だってある。そうなれば生活は安泰でしょ。変なよそ者の面倒をみるよりも堅実なライフプランが練られる。そっちを採ったってこと。」
「まじけ…。」
「それだけなら私は何にも思わないわ。あの国じゃよくあることだもの。」
「じゃあなんで。」
「我慢の限界がきたの。」
「どういうこと?」
「家政婦が家のお金に手を付けだした。」
「え…。」
「兄さんはこれに猛抗議した。けど家政婦は意に介さない。むしろ開き直ってウチに居座った。そして好き放題にやり始めた。知り合いとかを勝手にウチに入れて酒を飲みだしたり、男を連れ込んだり、自分の子供を連れてきたりって。」
「うそやろ…。ってかそんなことになる前にイマガワに言ってその家政婦、家から追い出せばよかったがいね。」
「だってイマガワと連絡とる手段がなかったの。どこの誰かもわからない日本人でしょ。ツヴァイスタンの人達に聞いても誰もあの男の事知らない。」
「じゃあこっちから強制的にその家政婦追い出せば。」
「できないの。その時すでに家政婦は党の幹部に取り入ってたの。だから私らが政府の出先機関に何かを訴え出ても却下。むしろ家事の全てをやってるんだったら、労働の状況から見て家政婦のほうが正しいとかいう始末よ。」
「なんねんそれ…。」
「そこでとうとう兄さんがキレたの。」
「キレたって?」
「その家政婦を殺した。」
「え…。」
「家政婦だけじゃない。その子供も。」
「う…嘘やろ…。」
「本当よ。」
「え…下間さんのお兄さんは…。」
「ええ…人殺しよ。」
ーツヴァイスタンの下間宅ー
「はぁはぁはぁはぁ…。」
息を切らす下間悠里の目の前には、家政婦とその子供の無残な遺体が転がっていた。
「に…兄さん…。」
悠里の背中に麗は声をかけた。
「来るな…はぁはぁ…。」
「兄さん…。」
「うるさい!!」
持っていた鍬を悠里は力なく床に落とした。
麗は悠里がいる部屋の様子を見た。あたり一面に血しぶきが飛び散っている。悠里にも大量の返り血のようなものが付着していた。
「お…お母さん…。」
「黙れ!!」
麗の身体が震え出していた。
その時である。家の扉が開かれた。振り返るとそこに男がひとり立っていた。
「イ…イマガワ…さん?」
男は麗の方をちらりと見て、そのまま立ち尽くす悠里の側に立った。
「良くやった。」
未だ息を切らす悠里の肩を叩いて彼はこう言った。
「この家政婦は党の規律に違反して幹部に賄賂を渡していた。それを自らの手で処分したお前は素晴らしい。」
「はぁはぁはぁ…。」
「これでお前は党のエリートコースを歩める。」
「え…?」
「特別学校だよ。おめでとう。」
「どういうことですか…。」
今川は横たわる遺体を覗き込んだ。そして手袋をはめ家政婦の胸元を調べた。
「ほうほう…几帳面にメモしてあるな。」
彼の手には一冊の手帳のようなものがあった。
「こっちから渡した金はほぼ全額幹部のところに行ってるか…。ミカイル、ヴィチャスラフ、ヤロポロフね…。これは物証になるな。」
「あの…。」
「これで奴らは俺の統制下に置くことができる。」
「え?」
立ち上がった今川は再び悠里を見た。
「特別学校のこと、お前知ってるよな。」
「…あ…はい…。」
「党に忠誠を誓う秘密警察養成学校。ここに入ることはその後の人生を約束されたと同じ意味を持つ。」
遺体に背を向けた今川は悠里の頭を撫でた。
「おめでとう。」
人を殺してしまったというのに自分が褒められ、祝福さえされていることに悠里は戸惑いしか感じなかった。
「え…でも…。」
「うん?どうした?」
「ぼ…僕は…人を…。」
「いいんだよ。これで。俺はお前を試した。」
「え…?」
「正確に言うと試験だ。」
「試験…?」
「ああ。特別学校の卒業要件のひとつに規律違反分子を自分の手で処分するというのがある。」
「え?」
「お前はその特別学校に入学する前に、自分の力で規律違反分子を調べあげ、処分まで成し遂げた。入学前に卒業要件を満たすなんて人材はなかなかいない。首席入学だな。」
「お…おれ…が…。」
「ああ。卒業すればお前は晴れてオフラーナ(秘密警察)の一員だ。」
瞬間、一定の距離をおいて二人のやり取りを呆然と見ていた麗が間に割って入った。
「麗…。」
彼女は床に転がる鍬をその小さな身体でもってなんとか持ち上げた。
「どうしたんだ…麗…。」
「なんだ…こいつ…。」
今川が訝しげな顔をした瞬間、彼女が手にする鍬は目の前に横たわる家政婦の息子の頭蓋めがけて振り下ろされた。
「麗っ!」
鈍い音が部屋に響くと同時に、床に広がった血だまりに足を滑らせて麗は転倒してしまった。
「麗っ!何やってんだ!」
悠里は咄嗟に彼女を抱きかかえた。その時である。彼の目に床に転がる一丁の拳銃が映りこんだ。
「え…。」
「こいつ…兄さん狙ってた…。」
胸元から拳銃を取り出した今川は消音化されたそれで、家政婦の息子の腹と頭部めがけて発砲した。またたく間の出来事だった。
「なんて子だ…。」
銃をしまった今川は座り込んで麗の顔を覗き込んだ。
「悠里もそうだが、麗。お前も相当見込みありだな。」
頭を撫でられた麗はその後のことをあまり覚えていない。
「え…それって…。」
「…長谷部君が今思ってるとおりよ。」
「そ…そんな…。」
「私も兄さん同様人殺し。」
自分の体から一気に血の気が引いていくのを長谷部は感じた。
「兄さんはそれから間もなく特別学校に入学して飛び級で卒業してオフラーナに入った。わたしは女だからあそこには入れないの。その代わりなのかわからないけど、次にあてがわれた男のお手伝いさんが私にいろいろ教えてくれた。お小遣いもいっぱい貰ったの。」
長谷部は無言である。
「わかったでしょ。」
「…え?」
「イマガワがすべての元凶なの。イマガワがウチに介入さえしなければ私も兄さんもこんなことになってなかった。」
「…。」
「後で分かったんだけど、父さんを日本での任務に従事させたのもイマガワだったの。」
「え?」
「留守になる下間家に家政婦を送り込んだのもイマガワ。それを始末させたのもイマガワ。不正を働いていた幹部連中を脅してツヴァイスタン内での地位を確率できたのもイマガワ。イマガワさえ居なければ私らは普通にあの国で生活できた。」
「何ねんて…それ…。」
「私の家は気づいたらイマガワの統制下に置かれてたってわけよ。」
長谷部は呆然とした。
「どう?話し合いでなんとかなる?」
「え…。」
「ねぇ話し合いでなんとかなる?」
「そ…それは…。」
麗はため息をついた。
「お願い…。なんとかなるって言って…。」
「え?」
「長谷部君しか頼れないの…。」
「そ…そんな…。」
再び長谷部の携帯電話が震えた。彼は無意識のうちにそれを手にした。
「あ…。」
相馬からの着信であった。
「相馬…。」
「え?相馬くん?」
「だめや…俺…今、とてもあいつの電話なんか出られん…。」
ポケットにしまおうとした矢先、それは麗によって奪われた。
「ああっ!」

 

受話ボタンを押下した麗は相馬からの電話に出てしまったのであった。