第九十六話

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第九十六話
五の線2 第九十六話
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「一色さんがお父さんの上司やったってわかったんは、熨子山事件が起こってからの話。あの事件が起こってあの人が一色さんに関わるなって言っとったんは当たっとったんやってわかった。」
「…そうやったんや。」
「周、あの事件起こった時、一色さんは特に関係ないって無視したやろ。」
「おう。」
「んで冷たいとか皆に言われたがいね。」
「うん。京子ちゃんにも言われた。」
「うん…。あの時はごめん…。今になって何なんやけど。この前西田先生が言っとったみたいに、周のあの時の判断は正しかったと思うの。」
「じゃあなんで、京子ちゃんおれの事責めたん。」
「何か…正直、一色さんってそんなに悪いことをする人には思えんかってん。ただそんだけねん。」
「え?」
「稽古つけてもらって、周と一緒にあの人の話聞いたがいね。あの時のあの人の話し方とか雰囲気とか思い出しても、そんなことするような人にはどうしても思えんかってん。」
「でも、京子ちゃんはお父さんの忠告は正しかったって思ってんろ。」
「うん。でもお父さんが言っとった関わるなってことは、何かそういう意味で関わるなって言っとったんじゃないかって思ってん。」
「は?」
「ほら、もともとお父さんはどうしても関わるって言うんなら、全部引き受けろっていった訳やがいね。」
「あ、おう。」
「絶対に私に危険が及ぶっていうんなら、何が何でも一色さんと私を引き離すはず。けどあの人はそこまでせんかった。」
「…そうやね。」
「結局あの事件って一色さんはなんにも悪くなかってんろ。」
「確かに。」
「事件が起こって一色さんと関わるなって言っとった張本人のお父さんは結果的に一色さんのすべてを引き受けた。事件の解決をすることで落とし所をつけた。」
「そうとも言えるね。」
「お父さんは熨子山事件の捜査をする時に一色さんにどんな感情を持っとって、何考えとったんやろう。それはあの事件以降、いっつも私の心の何処かにあった。そんな中、ひょんな事で北高で西田先生から一色さんの手紙を貰った。」
京子は一色の手紙を取り出した。そしてそれに目を落としながら長文であるその中の一節を読み出した。
”自分が死んでしばらくは平穏な時間が過ぎると思います。しかし2・3年ほどでおそらく何かが起こるでしょう。何かが起こる時に君たちは岩崎香織という美しい女性と接点を何かの形で持つはずです。彼女はコミュというサークルのようなものを運営する側に立って、一般の人たちを組織しています。
先に君たち2人だけに教えておきます。彼女は岩崎香織ではありません。岩崎香織とは世を忍ぶ仮の名前。本名は下間麗という女性です。彼女の父親は下間芳夫。そう、君たちがおそらく一緒に入学を果たしているであろう大学の教員です。
彼女が何故、そのような偽名を使って生きているのか。その辺りの説明はここでは割愛します。ただ、これだけは言えます。彼女にはそうしないといけない事情がある。彼女自身の意志に関わらず岩崎香織として生きていかなければならない事情があるんです。
そこでお願いがあります。君たちに彼女をコミュから遠ざけて欲しいのです。
細かい理由はここでは書ききれません。ですが、それを成すことで彼女は背負わされている重い十字架から解放されます。時間をかけて岩崎香織としてでは無く、下間麗としての人生を歩み直すことができます。
君たちだけではなく、いろんな人達が自分の力の限りを尽くして、いまそれを実行しているでしょう。”
「警察やめたって言って…お父さん、ひょっとしてこのことで今頑張っとるんじゃないかなって…。」
「…まだ一色さんのすべてを引き受けとるってか…。」
「うん…。これ引き受けることで私もお父さんが考えとることが分かるような気がしてん。」
「京子ちゃん…。」
「別に私、お母さんよりもお父さんの方が好きとかじゃないげんよ。お父さんに肩入れしとるわけじゃないげんよ。ただ、よく考えたら私、物心ついた時からお父さんのこと何にも知らんかった。ほやからせめてあの人のことをある程度知ってから、2人が別れるなり何なりすればいいと思うだけねん…。」
京子の瞳に再び涙が浮かび始めていた。
「本当は…別れてほしくなんか…ない…。」
「京子ちゃん…。」
「私だってひとりでこんな訳の分からんこと遺言みたいに押し付けられて嫌やわいね…。ほんで岩崎さんを騙して何とかするってのも嫌や。でも、なんか…周とならできるような気がしてん。」
相馬は再び彼女を抱きしめた。彼女は彼の胸の中で子供のように泣きじゃくった。
アイドリングをして停車している車の助手席で、煙草に火を付けてそれを勢い良く吹き出した。
携帯電話目を落とすと時刻は19時50分を指している。画面には不在着信の通知があったが、彼はそれを削除することで無視をし、前方に見える明かりが灯された一軒の家をしばらく見つめた。
ランニング姿の男が前方から走ってきた。男はそのままこちらの方に向かって走ってくる。彼はそれには関心を示さずにそのまま家の様子を伺っている。
「何やってるんですか。」
気が付くとランニングの男が運転席側に立っていた。
「ちょっと様子を見たくってな。」
「こっちはスタンバイOKです。」
「そうか。」
「相馬の家にも何名か張り付かせています。」
「…理事官に礼を言わんとな。」
「じゃあ。」
男はそのまま走り去った。
「さてと…。あいつにもひと働きしてもらうかな…。」
そう言ってゆっくりとアクセルを踏み込み、彼もまたその場から走り去っていった。
ベッドの上に力なく座り、何もない壁をただ呆然と見つめる岩崎の姿があった。
「だから明日のコミュをもってお前は脱会しろ。この件は俺が黙っておく。」
「え?脱会?」
「ああ。」
「脱会してどうすればいいの私?」
「知らない。勝手に生きろ。」
「え?兄さんも父さんもこれで縁が切れちゃうの?」
「その俺の呼び方はもうやめてくれ。」84
「私ひとりで…どうやって生きていけっていうの…。」
ベッドの傍らには1枚の写真が落ちている。そこには車いすに座る母の下間志乃を囲むように芳夫、悠里そして幼いころの彼女が写っていた。
 
「お前が母さんのことを心配する気持ちは分かる。俺もそうだ。だが今回の任務が完了したら俺らがまたあの国に帰って昔のような生活ができる保証はない。」
「なんで?だってお父さんそう言ってたじゃない。そう言ってお父さん私達をツヴァイスタンから日本に連れてきたんでしょ。」
「俺だって独自のネットワークがある。そこから日々情報を入れている。だが実際のところ母さんの容体はおろか、その生存も確認できていない。」84
ー10年前ー
夜陰に乗じて一艘のボートが日本海岸に着岸した。
下間芳夫が砂浜に降りると、その後に麗が足元がおぼつかない様子で続いた。
まだ幼い麗は何も言わずに芳夫の後を歩く。
彼は岩陰に沿うように砂浜を歩き、夜釣りをしている男と接触した。
「来い。」
芳夫と麗は釣り道具を片付けた男に連れられて、彼のSUVに乗り込んだ。男はエンジンを掛けて車を発信させた。
「麗。ここがお前の故郷の日本だ。」
「Я не знаю, хорошо темно」
「やめなさい。ここではその言葉は使うんじゃない。」
「…暗くてよく分からない。」
「もう数時間すれば夜も明ける。」
「兄さんは?」
「悠里は東京だ。麗、お前はこれから悠里と生活をするんだ。」
「お父さんは?」
「お父さんは石川で仕事をしている。時期が来たら悠里と一緒にここに来い。」
「時期って?」
「お前は岩崎香織って小学6年生だ。」
「え?小学6年生って、私14なんだけど。」
「いいからお前はここではその年令なんだ。お前はこの春から悠里と生活して、石川大学の大学生になるんだ。大学生になればお父さんとも時々会える。」
「え?6年も先の話?」
「いや、10年後だ。」
「え?意味分かんない。日本は6・3・3・4制でしょ。私が大学生になる時は6年後でしょ。」
「お前は学校には行かない。悠里から直接勉強を教えてもらうんだ。お前が及第点を取れるようになったら、石川大学へ入学できるようにする。」
「どういうこと?そんなのんびりしてたらお母さんの身体悪くなっちゃうよ。」
「お前には専門的な分野の勉強をマスターしてもらわないといけないから、それぐらいの余裕が必要なんだよ。」
「なに…それ…。」
「いいから。お母さんは心配ない。偉い人がちゃんと面倒見てくれてる。それにその偉い人が定期的にお父さんにお母さんの容体を知らせてくれている。麗。お前はお母さんの心配よりも、自分がやらなきゃいけないことをちゃんとやることだけを考えなさい。」
麗は黙った。
「お前がやらなきゃいけないことはわかってるな?」
彼女は頷いた。
「よし。いい子だ。」
「私がその石川大学に行けば、お母さんの身体はよくなるの?」
麗の質問に芳夫は言葉をつまらせた。
「…そうだ。」
「分かったわ。頑張る。」
「いい子だ。麗。」
車はそのまま金沢方面に向かい、北陸自動車道に乗った。途中、有磯海のパーキングエリアで2人を待っていた車に乗り換え、上信越自動車道を経由してそのまま東京に入った。
「着いたぞ。」
芳夫がこう言うと後部座席で眠っていた麗が目を覚ました。
窓から見える居並ぶビルによって削り取られた空が極端に狭いことに、麗は驚いた。
「窮屈だろう。」
「…うん。」
「これが東京ってところだ。人間が住むところじゃない。」
「そうね。」
向こう側からスーツを着た若い男がこちらに向かってやってきた。
「ほら、お前の兄さんの悠里だよ。」
「え?あんな人だったっけ?」
「ははは。お前、兄さんを忘れてしまったのか?」
「だって、兄さんと会うの5年ぶりだもん。」
「あーそうか。そうだったね。麗がまだこんなに小さい時だったか。」
そういって芳夫は当時の麗の背丈を手で表現した。
「あの時はお前は9歳。悠里は18歳だったか。」
「お父さんの頭もそんなに禿げてなかったよ。」
「うるさい。そんなことはいい。」
ドアが開けられて悠里が車に乗り込んだ。
「久しぶりだね。麗。元気だった?」
「うん…。」
「大変だったね。真っ暗な海渡って来たんだ。いい子にしてたかい?」
「悠里。麗は肝っ玉が座っている。あの暗闇の中でこの子は空に広がる満天の星空だけを眺めていた。」
「へぇ。すごいね。普通の人は闇が怖くって泣き叫ぶんだけど。」
「この子はいいもの持っている。」
「本当ですね。」
麗は悠里から顔をそむけている。
「何だよ。麗。」
「悠里。恥ずかしんだよ。」
「人見知り?」
「多分な。」
悠里は口元を緩めた。
「麗。お母さんは?」
「え?」
「お母さんは元気かい?」
「…あ…。」
「どうなんだい?」
麗はコクリと頷いた。
「そうか…良かった。」
「でもベッドで寝たまんまだけど。」
「あ…やっぱりそうなんだ。」
「良くはなっていないの。」
「そうか…。」
「近々、あっちの方に出張で行くらしいな。」
芳夫が悠里に声をかけた。
「ええ。1ヶ月後、ロシアの方へ出張がありますからのときに足を伸ばしてツヴァイスタンまで行ってきます。」
「そうか。」
「その時、俺も母さんの様子見てくる。その間は麗。お前、ひとりでここでちゃんと生活するんだぞ。」
悠里は麗の小さな頭を撫でた。
過去の情景に思いを馳せていた彼女であったが。携帯電話の音によってそれは消えた。
力なくそれを手にした彼女は、発信元の表示を見て身体をこわばらせた。
「大学に入ってから現在に至るまでの長谷部の被害者は33名。こいつは酷いな…。悪魔としか言えない…。」84
 
「長谷部…。」
「好きになった女の人が元気を失くしとる。そんなの目の前にして放っておけっかいや。」70
「あれ…いろんな人に言ってたんだ…。」
着信が途切れた。彼女はベッドに顔を埋めた。
「麗。これだけは言っておく。お前が今まで生きてきた人生は他人のための人生を歩むだけの受動的な人生だ。いまお前は自分のための人生を歩む重要な岐路にある。岩崎香織ではなく下間麗としてな。」84
麗の動きが止まった。
「下間麗として?」
顔を上げた麗は窓に映りこんだ自分の姿を見つめた。
「いま俺は兄としてできることの精一杯をやっている。頼むから俺の言うとおりにしろ。」84
「明日のコミュには来てくれ。俺の方でうまくやる。お前はそれに合わせてうまく立ち振る舞え。」84
「兄さん…。何ひとりで背負っちゃってんのよ…。」

 

そう呟いた彼女の手は携帯電話を握っていた。