第九十四話

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第九十四話
五の線2 第九十四話
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「まだ帰ってこんがか。」
山県邸に張り付いたままの岡田は前方を確認し、車内でコンビニのおにぎりをかじった。
「うん?」
彼の車の前に一台のワンボックスカーが止まった。そのため岡田の視界は塞がれた。
「まずい。」
岡田はエンジンを掛け、場所を移動しようとした。
その時である。ガッシリとした体つきのスーツ姿の男が二人、ワンボックスカーから降りて岡田の側に駆け寄ってきた。
「何や…。」
ひとりが岡田の車の後ろに立ち、彼の車は瞬く間にワンボックスカーと人間によって前後を抑えられ、身動きがとれない状況になったのである。
「プロやな…。」
もう一人の男が運転席の窓を軽くノックした。よく見ると彼の左耳にイヤホンが装着されている。
岡田はゆっくりと窓を開けた。
「なんの用や。」
「交代です。」
「あん?」
「すぐに所轄に戻ってください。」
「はぁ?お前らなんねん。どこのモンや。」
「警視庁です。」
「警視庁?」
岡田は男の発言にタダ事ではない雰囲気を感じた。
「山県久美子の警護は我々でやります。つべこべ言わずにあなたはさっさと北署に戻って、捜査一課課長の職責を果たして下さい。」
「なにぃや。俺の身分は今宙ぶらりんなんや。」
「大丈夫です。」
「何が。」
「いいからさっさと戻れ。」
凄みのある声で岡田は一喝された。
「断る。俺はいまは警察官じゃない。」
ちっと舌打ちした男はしぶしぶポケットからあるものを取り出して岡田に見せた。
「あ…。」
「あんたの警察手帳だ。これでいいだろう。」
「え?なんで…?」
「戻ればわかる。」
そう言って男は腕時計に目を落とした。
「10分だ。10分で所轄に戻るんだ。話している暇はない。」
余計なことは話さない。極めて冷静に淡々とした様子だ。これに岡田は何かを感じ取ったようだ。
岡田が警察手帳を受け取ると、車の後方に立っていた男がどいた。それを見て岡田は一気にアクセルを踏み込んでバックし、その場から走り去った。
「聞いたとおり天邪鬼なところがあるな。」
「こじらせなくてよかったですね。」
「ああ。」
男はイヤホンマイクに口を近づけた。
「岡田。所轄に合流。10分で到着。」
「了解。」
「俺ら警視庁まで動かしてんだ。相当でかい山だぜこれは。」
自宅の冷蔵庫を開けるも食事にあてがうような食材はない。しぶしぶ相馬は家を出て近くのコンビニに向かった。
ーなんねん…。急に結婚記念旅行って…。いい歳こいて何盛り上がっとれんて…。
彼の脳裏に卓と尚美が手を繋いでキャイキャイしている様子が浮かんだ。
ーォ・・ォェッ・・・勘弁してくれま。
彼は乱雑に頭を掻いた。
ーヤメヤメ。ほっとけほっとけ…。ほんなことよりもメシや、メシ。
ポケットに手を突っ込んで相馬は地面を見ながら歩いた。
ー岩崎さん、ちゃんと長谷部とうまいことやってくれとるかなぁ。…やっぱりあの娘だけに投げるんじゃなくて、長谷部にもこっちからどうやどうやってせっついたほうがいいんかなぁ。でも何でおれがそんなにガッパになっとるんやって怪しまれると最悪やし…。
「あ…カレーの匂い。」
なんとも言えない魅力的な香りが相馬を誘った。彼はその発生源を鼻で探り、知らず知らずのうちに香りの出元の方へと進んでいた。
「あ…。」
彼の目の前に現れたのは明かりが灯る片倉邸であった。
「京子ちゃん家か…。あれ?」
相馬は気がついた。いつもこの時間に止まっている母親の新車がない。彼女はまだ帰っていないのか。踵を返して彼はコンビニがある方向とは逆の方へ進んだ。
暫くして小さな駐車場に出た。京子の父がここに車を止めていることを知っていた相馬は、それを確認しに来たようである。
「だっていっつもおらんもん。しょうがないがいね…。」13
彼女の言うとおり父親の車はこの時も無かった。
ふーっと息をついた相馬は再び片倉邸の前に向かった。
ー京子ちゃんのお母さんがこの時間に家留守にしとるって珍しいな…。
カレーの匂いに誘われて歩み、気が付くと彼は片倉邸の玄関の前に立っていた。
ーどっちもおらんがやったらちょっと顔出してみっか。
玄関のチャイムを鳴らすと足音が聞こえ、鍵が開けられた。
「おかえりー…って…あれ?」
「おう。」
「周?」
「おう。ちょっとコンビニ行く途中にいい匂いしたから顔出してみた。」
「あ…そう。」
「カレー?」
「うん。」
「お母さんは?」
「え?」
「家の前に車ないからどうしたんかなって思って。」
「あ…今日は遅くなるらしいげん。」
「あ…そう。」
「周って晩飯食べたん?」
「ううん。まだ。これから食べる。」
「家で?」
「あぁウチもなんか親ふたりとも急に旅行行くって言っておらんげん。んで晩飯どうすっかなってコンビニに行く途中カレーのいい匂いして、元を辿ったら京子ちゃん家やったってわけ。」
「あ、そうなん。じゃあウチで食べていきなよ。」
「え?いいが。」
「うん。だって私もひとりやもん。せっかくやしどうぞ。」
「あ…じゃあお言葉に甘えて。」
「って、始めっからご飯にありつこうって魂胆やってんろ。」
「…はい。そうです。」
「素直でよろしい。」
LDKに通された相馬はダイニングテーブルのところに座り、部屋を見回した。
「あんまり変わっとらんね。」
「え?」
「ほら昔、ここで坊主めくりしたことあったいね。」
「ああ、すっごい昔の話やね。小学校の時じゃない?」
「うん。2年か3年の時や。なんでか分からんけど坊さん引いたら、ぼーんさんぼーんさんって言ってケタケタ笑っとった。」
「あーなんかそうやったね。」
「今思えば何が面白かったんか分からんけど、とにかくあの時、友達も一緒になって爆笑しとった。」
「そうやね。」
「あの時と部屋の様子があんまり変わっとらんように思う。」
「そうかな~。結構模様替えとかしとるよ。」
「え?そうなん?」
「うん。周ぇ〜そんなにウチに来とらんがいね。」
「あ…うん。」
「適当なこと言わんといて。」
「あ…ごめん…。」
思い起こせばこの空間での京子との思い出は、さっき彼が言った幼少期のものだけだ。相馬も京子も無邪気にはしゃいでいた頃である。
相馬は夕飯の用意をする京子の後ろ姿を見つめた。彼の前にある京子の姿はその頃の彼女ではない。紛れも無く大人の女性の姿であった。キッチンに立ち手際よく食事を盛りつけ、洗い物を済ませる彼女の姿は、肩から腰、そして足先にかけて女性らしい見事なSの曲線を描いている。
「なに見とらん?」
「あ?え?」
「まぁいいわ。はいどうぞ。」
相馬の前にカレーが盛りつけられた皿が給仕された。
「いただきます。」
合掌を解いた相馬はそれを口に入れた。
「あちっ。」
この第一声に京子は肩をカクンと落とした。
「えーそれ?」
「だってあっちぃもん。」
「当り前やがいね。それじゃなくて。」
「あ…ウッメ。」
呆れ顔だった京子に笑みが浮かんだ。
「ウッメ。これ。たっだウッメ。」
「本当?」
「うん。京子ちゃんって料理うまいげんね。すっげこれ。ウッメ…。」
「何か…プリンの時とおんなじやね。」
「え?」
「ほら何か、もうちょっとうまく言えんが?」
「何ぃね。うまいもんは美味い。ほんでいいがいね。」
そう言ってカレーをむさぼり食う相馬の姿を、京子は微笑ましく見つめた。
「うん?どうしたん?」
「うん?え?あぁ…なんでもない。」
「あ、そう。」
「…なんか嬉しくって。」
「へ?」
スプーンを手にする京子の頬に赤みがさしていた。
「だって…今日はひとりでご飯やと思っとってんに、周が来てくれたから…。」
相馬の食事のスピードがとたんに落ちた。
「…そう。」
「うん…。」
「そういや、お母さんって何時に帰ってくらん?」
「わからんげん。」
京子はスプーンを置いてしまった。
「わからん?」
「うん…。」
相馬は動揺した。なぜならば目の前の京子の瞳にあふれんばかりの涙が湛えられていたからだ。
ことの重大さを察した彼は咄嗟に食事を止め、京子の側に寄った。
「いいよ。無理せんで。」
彼は彼女を引き寄せてそのまま抱きしめた。
彼女の涙が自分の胸を濡らすのを感じながら、相馬はただ黙っていた。