第九十一話

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第九十一話
五の線2 第九十一話
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「貴様には黙っていたが、実はな…俺は嫁さんを寝取られてるんだ…。」
「え…。」
「所轄の公安課の課長だった頃だ…俺も貴様のように家を開けっ放しだった。あの頃の俺はまだ若かった。確か40前半の事だったと思う。ひとつのヤマが解決し、久しぶりに家に帰ったんだよ。そうしたら玄関で異変に気がついた。」
「まさか…。」
「ああ。見覚えのない男のものと思われる靴がそこにあった。それを見た瞬間俺は何が家の中で起こっているか悟った。」
「やめて下さい。聞きたくありません。」
この片倉の発言は拒絶ではなく要請であった。しかし朝倉は言葉を続けた。
「ひとが命を懸けて日々危険な仕事をしているというのに、あいつは男にうつつを抜かしている。子供がいるのにだ。俺にはふつふつと怒りがこみ上げていた。殺意さえ芽生えていた。」
「殺意…。」
「だが…。」
「だが。」
「聞こえてくるんだよ、情事の声が。俺が一歩足を進めるたびにそれが近くなる。そこで俺は気がついた。」
「…。」
「俺がこの結果を作り出している。」
「部長が…。」
「一気に無力感が俺を包み込む。気が付くと俺は家から程遠い居酒屋で酒を浴びていた。」
片倉は深い溜息をついた。
「その時は家に帰る事無く俺は居酒屋で一晩明かした。この段階においても俺の帰りを心配する嫁の声はない。あたりまえだ。家にいないのが普通だったからな。このままじゃ家庭は崩壊する。そう思ってそれから俺は嫁さんと話し合いの場を頻繁に設けた。それが功を奏したか、幸いなんとか今もあいつに逃げられずにいる。」
「話し合いですか…。」
「ああ。貴様の様子を見る限り、事は逼迫しているように俺には映る。早いほうがいいだろう。」
またも片倉は息をついた。
「参りました。部長…。」
「うん?」
「あなたの体験。今の俺とダブって見えます。」
「…そうか。」
「正直、俺はあいつがどうとかはどうでもいいんですが、娘が気になるんです。娘にだけはつらい思いをさせたくない。だからどこかでちゃんとあいつとは話し合いの場を持たんとイカンと思っとった。でもその時間が作れん。タイミングも合わん。」
深呼吸をした片倉は意を決して言った。
「お願いします。部長。」
「…わかった。」
「捜査については心残りがありますが、やむを得ません。何卒お取り計らいのほどよろしくお願いいたします。」
「こっちこそ理解をしてくれて嬉しく思う。直ぐに手を打とう。ただ…。」
「ただ?」
「そのためには貴様にこちらに来てもらう必要がある。」
「え?」
「明日こっちに来い。」
「え?東京にですか?」
「ああ。明日1日だけだ。丁度俺は長官と会うことになっている。そこに貴様も同席しろ。」
「え?どういうことでしょうか。」
「警察から公安調査庁へ出向という形で話を通す。その場で長官から警察へ根回ししてもらう。貴様はこっちの人間になった時点でゆっくりと夫婦で話し合いをするといい。」
「公安調査庁の長官直々にですか…。」
「なんだ不服か。」
「いえ、恐縮至極です。」
「トシさんにはまだ伏せておけ。」
「ええ。」
「明日の15時。待っているぞ。」
「よろしくお願いいたします。それでは失礼いたします。」
そう言って電話を切った片倉にセバストポリの店主である野本は、そっとコーヒーを差し出した。
「勝負や…。」
こう言う片倉の肩を野本は軽く叩いてそれに応えた。
「あんたならやれるさ。きっと。」
電話を切った朝倉は遠くを見つめた。
「俺が嫁を寝取られる?」
朝倉の方は小刻みに動いている。
「…そんな訳がないだろう。三流作家が思いつきそうなストーリーだ。こんなもんを信じるとは片倉…。ククク…末期だな…。」
「ええ。なんとか巻きました。」
金沢駅近くの寂れた商店街でヒソヒソ声で話す悠里の姿があった。
「とにかく、僕らはあいつらにマークされています。なので軽々な事はやめておいたほうが良いと思います。」
「とは言え鍋島の件は中断するわけにはいかない。これは命令だ。」
「わかっています。これはこれで僕が秘密裏にやります。ですが例の件は様子を見たほうが良いかと。」
「…だめだ。これも上からの命令だ。現場の判断で中止する訳にはいかない。」
「…どうしてもですか。」
「一応、今川さんには図ってみる。だが望みは薄だと思っておけ。」
「そこをなんとか、お父さんの力でお願いします。もしも全てが露見しているとなると今度動いた瞬間に全てが終わります。」
「最善は尽くしてみる。悠里。お前はくれぐれも鍋島には気をつけるんだ。」
「はい。」
携帯を仕舞った悠里はため息をついた。
辺りを見回すと帰宅時間ということもあり、ところどころにスーツ姿の男がいた。ブリーフケース片手にハンカチで汗を拭いながら未だ営業に奔走する者、居酒屋に吸い込まれていく者、クールビズ姿でスマートフォンをいじりながら歩く者。様々である。
ー巻いたと言ってもどいつが公安の人間かわからない。とにかく人気のないところを選んで移動しよう。
彼は通りを一本曲がり、ひっそりとした住宅地を進んだ。
ーなんだ…こっちの思惑通りに事は運んでいたと思ったが、あいつらいつから動いてるんだ…。まさか俺らは泳がされているのか?…もしそうだとしたら…。
早足で進む悠里は携帯電話を取り出し、そこに目を落とした。
ー鍋島…どこに向かっている…。
地図上に赤い点が表示され、それがゆっくりと移動している。
ーさっきまで大通りを一定の速度で移動していたから、何かの乗り物に乗っていたのは分かる。しかし急に動きが遅くなった。徒歩に切り替えたか。あいつが今いる場所までここから約15キロか。
3分ほど進んだところに駐車場があった。悠里はそこに駐車されていたある車のドアノブに手をかけた。
鍵はかかっていない。それに乗り込んだ悠里はグローブボックスを開いてそこに格納されていた鍵を取り出し、エンジンを掛けた。そしてダッシュボードにある携帯ホルダーにスマートフォンを設置した。
ーまぁどこでもいいさ。鍋島、お前の行動は手に取るように分かる。
悠里は動きを止めた。
ーまて…鍋島の居所も警察に把握されているなんてことはあるまいな…。
彼は一旦車から降り、トランクの方へ回ってそれを開いた。
ーそうだとするとこいつを使うしかないか…。
トランクの中には細長い黒い革製のアタッシュケースのようなものが収められていた。
「なんや。暇乞いしたばっかりなんに僅か2日で復帰か?」
金沢銀行から退行する山県を外で捕まえて、佐竹は彼とともに歩んだ。
「いえ、復帰はしません。」
「じゃあ何でここに居るんや。久美子はどうしたんや。」
「久美子さんは今のところ無事です。」
「あたりまえや。そうじゃなかったらお前がなんでここにおるって言うんや。」
ポケットから車の鍵を取り出した山県は自分の車の前で立ち止まった。
「鍋島をおびき寄せたいと思っています。」
「はぁ?」
「部長。言ってましたよね。」
「なにを。」
「警察にアイツの事話したら久美子さんが危ないって。」
「それがどうした。」
「いまこの場で藤堂が直接自分と接触してきたって警察に通報してもらえませんか。」
「は?」
「お願いします。」
「佐竹…おまえ…自分が何言っとるんか分かっとるんか?」
「ええ。」
「お前な、言っとることが支離滅裂やがいや。お前は久美子を守る。そのためだけに暇乞いしたんやろ。ほんねんにその逆のことを俺にしろってか?だら。」
山県は佐竹が何を言っているのかさっぱり理解できない。彼はため息をついて車のロックを解除した。
「帰れ。」
「え?」
「帰れって言っとるんや。何やお前、久美子守るちゅうのはただの方便やがいや。お前はただ鍋島と鬼ごっこしとるだけやがいや。」
佐竹はうつむき加減で軽く息をついた。
「…ええ。そうです鬼ごっこです。」
「お前なぁ。」
「鬼は俺らしいですから。子を捕まえないといけません。」
山県は頭を抱えた。
「おい。」
「部長。俺は別に錯乱してません。いまここで警察に通報して下さい。」
「だら。んなことお前に言われて、ホイホイ言うこときくわけないやろ。帰れ。」
「鍋島はやると言ったら必ずやる奴です。部長が警察に通報すれば奴は再び久美子さんを狙います。なによりも優先して。」
駄目だ佐竹の言うことは矛盾を極めている。どうしてわざわざ自分の娘を危険に晒すことができるというのか。山県は呆れ顔で佐竹を見た。
「あいつをおびき寄せた上で、反転攻勢をかけます。」
「え?」
「攻撃は最大の防御。守りから攻めに転じます。」
佐竹の瞳に確信に満ちた何かがあることに山県は気がついた。
「いままで俺らはあいつに翻弄されていた。あいつがどう出るか全く読めない中で、その場しのぎの対応をするしかなかった。あいつが先の先を行くというなら、こちらは後手後手だったとも言える。ですがそれはここで終わりです。」
「秘策でもあるのか。」
「いえ。そんな立派なものはありませんし、小細工も弄しません。正面から行きます。ボール球は投げません。直球で行きます。」
「どうするっちゅうんや。」
「鍋島は賢い。いろいろな情報を総合的に処理できる能力を持っている。そして凡人の先の先ををいく読みの持ち主。ですが人間の処理能力には限界ってもんがあります。鍋島の処理を超える膨大な情報を一度にあいつに投入することで、あいつの行動と思考をダウンさせます。」
「ダウン?」
「ええ。システムをダウンさせるように、圧倒的な量の情報を一気にあいつにぶつけます。」
「...なんかどこかで聞いたような。」
「ええ。今朝から報道でやっている石電のWebサーバが落ちた件です。あれはDDos攻撃という手法が用いられた可能性が高いと言われています。そこにヒントを得ました。」
山県はその手のIT関係の話は不得手だ。彼はピンと来ない顔をしている。
「総力戦です。ありとあらゆるものを投入します。」
「総力戦…。」
「ある人と話し合って、その時が来たとの結論に先ほど達したんです。」
「俺がここで警察に藤堂の事を通報することで何が起きる。」
「言ったでしょう、総力戦が始まる。部長の通報を奇貨として各方面が一斉に動く。」
「結果どうなる。」
「結果、あいつは久美子さんを狙うのではなくある場所に現れる。」
「ある場所とは?」
「それはいまこの場では言えません。」
山県は口をへの字にした。
「お前は?」
「俺はその場所で鍋島を迎え撃つ。」
「何?」

 

「部長。鍋島の根本的な攻撃対象は俺ら高校時代の剣道部です。部内のことは部内でけじめをつけます。」