第九十話

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第九十話
五の線2 第九十話
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ドットメディカルの自室で携帯電話を操作する今川惟幾の姿があった。彼はデスクトップパソコンのメーラーの迷惑メールの中の一件を開いた。タイトルも本文も文字化けを起こしたどうにもならないメールである。今川はそのどうにもならない文章を携帯電話を覗きながら、ときおり何かをメモ帳に書き記しながら読み込んだ。
「ゴ ク ヒ…。」
咳払いをした今川は姿勢を正した。
「悠 里 ノ 動 キ 報 告 ナ シ 。 至 急 報 告 サ レ タ シ 。」
「え…。」
彼の額から滝のような汗が流れだした。
ー何だ…。執行部は鍋島排除の件をキャプテンから聞かされていないのか?
ハンカチで汗を拭うも、今度は首筋にそれが湧き上がってくるため彼はその行為を止め、ペンを手にとった。
「Теперь, чтобы быть исключен из Набэсима по инструкции от капитана. Юрий переехал в изгнание.(キャプテンからの指示で鍋島を除名する事になりました。除名に悠里が動いています。)」
こうメモ帳にペンを走らせた今川は、再び携帯電話を覗き込んだ。そしてその文章を画面に表示されている乱数表を元に変換し、それをキーボードで打ち込んだ。ディスプレイに表示される一件文字化けした文章と携帯電話の表示を何度も照らしあわせて、彼は送信のボタンを押下した。そしてすぐさま携帯に表示されていたデータを消去した。
「ふーっ…。」
ー一体どういうことだ。
今川は天を仰いだ。
ーまさか俺は執行部の意に反することの片棒を担いだことになってるのか?
「執行部は混乱を待ち望んでいる。」
「…。」
「予定通り事を運べ。」88
 
ー朝倉が暴走しているのか?
今川はそのまま目を瞑った。
 
ー3年前ー
熨子山連続殺人事件が発生し、金沢北署前には報道陣が群れをなしている。ある局は北署をバックに中継を送り、またある局は出入りの警察関係者に取材を申し込んでいる。騒然としたその中で仕立ての良いトレンチコートを纏い、あごひげを蓄えた今川がひとり颯爽と署の中に入っていった。
彼は入って直ぐの生活安全課の署員に呼び止められた。
「すいません。いまは関係者以外、署内に入ったらいかんことになっとりまして。」
「あぁ私、別所さんに呼ばれてきたんですけど。」
「別所?」
「ええ。警務部の。」
「警務部のですか?」
署員は背後の上席者に何かの確認をとると改まった態度になって今川を応接室に案内した。
出された茶に口をつけて待つこと5分。部屋の扉が開かれて痩身の男が今川の前に現れた。
「GPSは貴様のところの社長の家を示していたぞ。どういうことなんだ。」
「大変申し訳ございません。朝倉本部長。」
朝倉はソファに掛けた。
「七里は一色の協力者なのか。」
「いえ、そのような情報は掴んでおりません。おそらく一色が旧知の中である七里の車に勝手にGPSの発信機を埋め込んだんでしょう。」
朝倉は舌打ちした。
「しかし一色の件はご心配には及びません。」
「ほう。」
「鍋島が奴を葬りました。」
「なに?」
「先程、私のもとに報告が入りました。」
「…そうか。となるとこれからの捜査の方向性も修正可能だな。」
「はい。」
「わかった、どこかの頃合いを見て幕引きを図る。」
「その際に鍋島の存在を消し去って下さい。」
「鍋島…か…。」
「何事も引き際が肝心といいます。」
「貴様に言われるまでもない。鍋島はうまく使えと執行部から指示が来ている。」
「あ…執行部から…。」
「ああ。」
今川は鞄の中からUSBメモリを取り出し、それを朝倉の前に差し出した。
「それは?」
「鍋島に関する県警の情報を、適当なタイミングで置き換えるプログラムが既にここに入っています。このタイミングで県警のシステムにこいつを流しこむことも出来なくはないのですが、できれば誰の目にも怪しまれない年度末の更新をもってこいつを流し込もうと思っています。」
「なるほど。」
「ついては県警のシステムの件、遺漏なきようお願い申し上げます。」
「わかっている。警務部の別所と総務課長の中川はこちらの陣営に取り込み済みだ。よほどの横槍がなければ県警のシステムはドットメディカルのものに置き換わる。」
「ありがとうございます。」
「…とうとう治安を抑えたな。」
「はい。しかしまだ一部ですが。」
「一部でいいんだ。今川。一部だから相手にわかりにくいし動きも取りやすい。知らないうちに徐々に蝕み、綻びを見せたところを集中的に攻撃して本体を撹乱する。これが弱者の戦法さ。」
「御意。」
朝倉は応接室にあるテレビをつけた。夕方のワイドショーが流れていた。
「見ろ今川。ここでは前代未聞の警察キャリアによる連続殺人事件が起こっているというのに、どこそこのランチは美味いとか安いとか、そのことで世間の人間は一喜一憂している。」
「ええ。」
「クリスチャンでもないのにクリスマスがどうだとか、どうでもいいことに関心を示している。」
「はい。」
「今川。貴様は外務省時代、世界を見てきた。」
「ええ。格差激しい世界をこの目で見てきました。富めるものはますます富み。貧しきものはますます貧する。」
「グローバル経済とかいう欧米の思想が格差を助長し、経済的な不安定さをもたらしている。格差は政情不安を引き起こし、混沌とした中で局地的なテロ行為も頻発。常に生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされている奴ら途上国の人間と、この平和ぼけした国の民は、これからの世界で競争をしていかねばならない。」
「戦後教育によって植え付けられた平和や人権という幻想に囚われた我が国の国民は牙を抜かれた狼になっています。それでは弱肉強食の世界では行きてはいけません。今は確かに我が国は先進国です。ですが10年、20年先は恐らく競争力は著しく低下し、国際的に見て搾取される側の陣営に成り下がることでしょう。」
「そうだ。だからこの愚鈍な国民の目を覚ます必要がある。それが我々の目指す革命だ。」
「そうです。」
「我々がわが祖国に栄光をもたらそう。」
ースパイ防止法の成立に心血を注ぎ込んでいたと思われる右側の人間が、揺り戻しで左翼。なるほど右翼も左翼も自分の思い通りに世の中の仕組みを創りあげたいってところは同じか…。
立ち上がった今川は部屋の中を歩き出した。
ーしかし我々の行動は全て執行部が決める。もしも朝倉が執行部の意に反して、単独で何かしらの行動をとっているとしたら、あいつの命令を受けている俺の立場はどうなる…。
足を止めた今川は先程のメールの文章を見つめた。
ー俺の命を受けて動く下間一族の立場も危うい…。しかし俺は朝倉の指示系統の下にある…。
「…やむを得ん。」
今川は再び席に座り、深く息をついてメモ帳に文字を書き始めた。
「お疲れ様です。朝倉部長。」
誰もいないセバストポリにひとり佇む片倉は弱々しい声で電話に出た。
「相当参っているようだな。」
「ふっ…面目次第もありません。」
「コンドウサトミらしいな。」
「…ええ。」
「すまん。俺があの事件の時、七尾のガイシャを鍋島と判断したばかりに今日の混乱が起きている。」
「部長。あなたの判断は何一つ間違っていない。」
「うん?」
「鍋島は確実に死んでいるんです。」
「…どういうことだ。」
「七尾のガイシャの指紋と鍋島の指紋は完全に一致しとります。なんで、あなたの判断は間違っていない。」
片倉は店のブラインドの隙間を指で広げて外を見つめた。
「鍋島の生存根拠の件はあくまでもドットメディカルによる陰謀です。」
「今川か…。」
「ええ。結果としてここで奴は尻尾を出しました。」
「やるのか。」
「いや俺はこの件についてはタッチしていません。」
「なるほど…情報調査本部ってやつか…。」
「捜査に関することですので部長といえども、これ以上の報告は差し控えさせていただきます。」
「片倉、貴様のターゲットはひとつ絞ることができた。あとは下間一派と鍋島だ。」
「ええ。」
「言うなれば負担が少し軽くなったようにも思える。しかし今の貴様の声を聴く限り、疲労しか伝わってこない。」
ブラインドを閉じ、彼はソファに腰を掛けため息をついた。
「部長…。」
「どうした。」
「俺は一度、鍋島に狙われています。」
「ああ。」
「奴は何かしらの手段でこちらの動きを手に取るように分かるようになっとる。」
「…。」
「あの時は偶然俺はなんともなかった。けど次はどうなるか分からん。」
「…怖いのか。片倉。」
「…はい。なにせいとも簡単に原発に忍び込んでマルバクを仕掛ける奴ですからね。」
「貴様らしくもない。」
「部長…。俺だって人の子です。命は惜しいですよ。」
「家庭だろ。」
鼻の付け根を摘んでいた片倉の手が止まった。
「家庭への未練が命の重量を重くする。」
「未練?」
「ああ。貴様。先日俺に言っただろう。」
「嫁さんだけは大事にしろよ。最後は本当に嫁さんに頼るしか無いからな。」
「…カミさんですか…。」
「どうした?」
「あ、いえ…。まぁなかなか難しい局面なんですよ。ウチは。」
「察しの良い部長ならお分かりでしょう。俺は兎に角、このヤマを解決して早いことカミさん孝行せんと、俺もトシさんみたいになってしまいます。なので、部長からのお誘いは申し訳ないですがお断りさせていただきます。」43
「失うものがない人間は前しか見ない。振り返っても何も無いからだ。貴様は振り返って後ろを見ている。だから前が曇って見えるんだ。」
「後ろ…ですか…。」
「何故、振り返るか。そう夫婦の仲の修復可能性を捨てきれないからだ。」
片倉は黙った。
「夫婦仲の亀裂の原因の大半はお互いの理解不足によるもの。公安警察という身分のため、貴様は職業を偽り、常に人前で仮面を被っている。それは家族においてもだ。仮面を被って妻と接しているのだから、真のコミュニケーションは取りにくい。それに出張と称し殆ど家を開けている。物理的にもその中身的にもコミュニケーションが取れない。貴様の夫婦仲の亀裂はなるべくしてなっている。」
「…痛いところ付きますね。」
「俺も貴様と同じような事を経験した。しかしどうにかこうにか今も嫁さんをを繋ぎ止めている。」
「部長は…どうやってしのいだんですか。」
「話し合いだ。」
「話し合い…。」
「ただ解ってくれと言っても相手は解りやしない。俺はそこで嫁さんに期限を切った。」
「期限?」
「ああ。いついつまで我慢してくれ。そうすれば現状は変わる。良い方に変わると。絶対に変わる。絶対に変えるためにあらゆる手段を俺は動員する。それで変わらなければそこでけじめをつけると。」
「コミットメントですか。」
「そうだ。そのコミットメントを得るために話し合いが必要だ。それが出来なければ貴様も古田のようになる。」
「トシさんのように…。」
「確実にだ。」
片倉はため息をついた。
「コミットメントを得るためには時間が必要だ。だから暇を乞え片倉。」
「え?」
「俺の方から松永に働きかけてやる。貴様の働きは松永でもしばらくなら肩代わりできるだろう。」
「しかし…。いまですか。」
「ああ。こういうことはタイミングが大事だ。」
「ですが…。」
片倉は浮かない声を発した。
「貴様には黙っていたが、実はな…俺は嫁さんを寝取られてるんだ…。」
「え…。」
唐突な告白に片倉は動揺した。