第八十七話

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第八十七話
五の線2 第八十七話
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バスから降りた相馬周は携帯の時計を見た。時刻は16時半である。5限目の講義が急遽休講となったため、この時間での帰宅となったのである。
「やっぱやめよう。」
こう言って彼は携帯電話をしまった。
ー昨日の今日で、長谷部と岩崎さんにあれからどうや?ってメールとか送るんは、やっぱなんかわざとらしいわ。2人くっつけるんにこっちのほうががっぱになって、何か変に勘ぐられたら不味いしな…。
ポケットに手を突っ込んで地面に目を落としながら、彼はトボトボと歩いた。
ーこんなんで良いんかな…。
ふと相馬の脳裏に一色の姿が浮かんだ。防具姿の一色はこちらに竹刀の切っ先を向け、中段に構えている。面を装着しているため、彼の表情の詳細は窺い知れない。相馬がふと気を抜いた瞬間、一色の竹刀の剣先は巨大な面となって彼に襲いかかった。僅か数センチしか無い剣先がとてつもなく大きな壁のように。
「メーン!!」
相馬はなすすべなく面を一本取られた。
「どうした。何ぼーっとしている。」
「あ…すいません…。」
「なんで謝るんだ。」
「あ…。」
「自分に非がないのに反射的に謝る言葉を発するのは良くないよ。」
「…はい。」
「いま君は気を抜いた。そこを俺に突かれた。真剣勝負に気を抜いてしまったって事を反省して、改善すればいいだけだ。」
「ちょっと休むか。」
「はい。」
一色の言葉に相馬は休憩の号令をかけた。
「やめーっ。」
部員たちは皆、動きを止めてお互いが構え、蹲踞、納刀の一連の動作をし、所定の場所へ走って正座し面を脱いだ。
相馬はその中で最も早く面を脱いで一目散に一色の元へ駆け寄った。
面を外した一色の顔には玉のように吹き出した汗があった。彼はそれを面タオルで拭って大きく深呼吸した。
「ありがとうございました。」
両手を着いて相馬は一色に礼をした。
それに数秒遅れて女子剣道部の部長である片倉京子が相馬の横に正座して同じく頭を下げた。
2人に応じるように一色も手をついて礼をした。
「県体で準優勝した一色さんの率直な感想を聞かせてください。」
「何の?」
「俺らの実力です。」
一色は腕を組んだ。
「僕には君らを評価することはできない。」
「え?」
「なぜかというと、僕には今の高校生の剣道の勢力図とか実力とかのデータがないから。」
「あ…。」
「じゃあ実際に稽古してみて一色さんが思ったことでいいです。」
京子が口を挟んだ。
「うーん。」
一色は腕を組んだまま考えこんだ。この間ものの数秒であったが、相馬と京子にとって成績発表をされるようで数分の事のように感じられた。
「いいんじゃない?」
「え?」
2人は拍子抜けした。
「良いと思うよ。気合も入ってるし、足も動いてるし、剣さばきもいい。」
「本当ですか?」
「ああ。個々人が良い動きしてると思うよ。」
「ありがとうございます。」
「でも。」
「え?でも?」
「敢えて言うとすれば、形が弱いかな。」
「え?形ですか?」
「うん。」
剣道には一般的に知られる竹刀稽古と併せて体得を求められる剣道形というものがある。これは稽古の際には竹刀ではなく木刀を使用し、礼法、目付、構え、姿勢、呼吸、太刀筋、間合、気位、足さばき、残心等の習得を目指すものである。竹刀稽古がスポーツ的であるのに対して、剣道形は武道としての側面が強いhttps://ja.wikipedia.org/wiki/日本剣道形
「でもそれって実戦に役に立つんでしょうか。」
「確かに昇段試験とかで付け焼き刃な演舞をする程度だと何の役にも立たない。」
「じゃあ。」
「ひとくちに形って言ってもいろんな捉え方がある。その諸々をここで議論するのは不毛だ。ここでは僕は攻め方、守り方の形として考えてみよう。それをもっと成熟させれば更に良くなると思う。」
「すいません。ちょっと一色さんの言っとることが難しくて分かりません。」
「ああすまない。簡単に言うよ。ひとそれぞれその攻め方、守り方がある。」
「はい。」
「先の先ってのもあるし後の先ってのもある。」
「はい。」
「ただそれだけだと漠然としてる。仮に先の先が得意だったとしたらそれを細かく分解して考えるんだ。」
「と言うと?」
「例えば、自分は面が得意だとしよう。その面が得意っていうことも細かく分解するんだ。一足一刀の間合いで中心線をとり合う中、ジリジリと間合いを詰めて、この間合なら誰よりも早く打突できるって具合に得意だって。で、そこで相手の気の緩みを掴んで飛び込むっていうのが自分の必勝法だって。」
「なるほど。」
「となるとそういう人の場合は、今言った自分の必勝パターンに近い状況を多く作り出せば勝つ確率は高くなる。」
「はい。」
「要は必勝の形を作っておいたほうが、攻め方が合理的になるって感じ。」
「じゃあ僕はどういう形をつくればいいんでしょうか。」
「え?」
「僕は出鼻小手が得意です。」
「…それは自分自身で考えな。」
「そんな…。」
「それが練習だよ。みんなで考えて解を導き出したら良い。」
「すいません。一色さん。」
京子が質問した。
「その必勝の形に相手をおびき寄せたり、試合の主導権を握れば合理的ってことですよね。」
「ああ。」
「でもそれができん時はどうすればいいんですか?」
相馬はなるほどと京子の言に頷いた。
「…それは勘がモノを言う。」
「勘…ですか?」
「ああ。それは反射神経以外のなにものでもない。」
「じゃあその反射神経を鍛えるにはどうすれば?」
「それは簡単さ。かかり稽古をひたすらやるしかない。」
「かかり…。」
京子のげんなりとした表情を見て、一色は口元を緩めた。
「いやだろう。」
「…はい。」
「おれも嫌だよ。辛いだけだしね。こんなシゴキなんかなんの役に立つんだって僕も昔思っていた。でもその形が突破されてしまって、いざって時にこいつが効くんだよ。」
「いざですか…。」
「まぁそうならないのが良いんだけどね。」
熨子山事件の半年前に一色と稽古をした時のことを思い出していた相馬の目の前に玄関扉が立ちはだかった。いつの間にか自宅にたどり着いていたようである。
「あれ?」
扉に手をやると鍵がかかっていた。
ーえ?今日どっか行くって母さん言っとったっけ?
相馬はしぶしぶポケットから鍵を取り出して扉を開け、中に入った。
リビングのドアを開くと、窓という窓の遮光カーテンが閉められている。暗い部屋の電気をつけるとテーブルの上に一枚の紙が置いてあることに気がついた。
お父さんとお母さんは結婚記念旅行に行きます。しばらく家を頼みます。( ^ω^ )
「はぁ!?」

 

 

思わず大きな声を上げた相馬は、呆然とその場に立ち尽くした。