第八十五話

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第八十五話
五の線2 第八十五話
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金沢駅近くのビジネスホテルにチェックインした鍋島はシャワーを浴びていた。
備え付けのボディソープを手で泡立て、彼は全身にそれを塗りたぐった。そしてそのまま両手を頭に持って行き、髪の毛ひとつない頭にもそれを塗って手早く流水で流した。
ものの5分程度で全身を浄めおわった彼はバスタオルで全身を拭きあげ、鏡に写る自分の姿を見た。
「相変わらず汚ねぇ身体だな。」
何で負ったものかは分からないが、彼の上半身のそこかしこに大小無数の傷跡があった。鍋島はその中でも腕にある傷跡に目を落とし、それをゆっくりと指でなぞった。
「久美子…。感じるよ、お前を…。」
そう言うと彼は恍惚とした表情になった。
彼は覗きこむように鏡に映る自分の顔を見た。
「あのころの俺とは似ても似つかぬ顔だ。そして髪の毛もない。いまの俺を見てあいつは俺を思い出すかな。」
鍋島は耳から顎にかけてを指でなぞる。
「俺には顔の感覚さえないんだよ。俺でさえこの鏡に映る人間が誰だか分からない時がある。」
タブレット端末を手にした彼はそこに映る久美子の姿を見つめた。
「でも…あいつのカラダは覚えてるか。」
そう言って鍋島は不敵な笑みを浮かべた。
「頼むよ…俺の傷を癒やしてくれ。久美子。」
映像の久美子は店員と何かの会話をしてた。時折腕時計に目を落とし、なにやら時間を気にしているようだ。
タブレットが示す時刻は14時である。
「なんだ。何やってんだ。」
画面の中の久美子は両手を合わせて別の店員に何かを頼んでいる。一旦画面から消え、再びそこに映る彼女の手にはバッグが握りしめられていた。
「外にでも出るのか。こいつは好都合だ。」
ビルの閉店時刻には関係者を送迎する車でこのあたりは混雑する。それに久美子の通勤には父の送迎が付いている。この2つの状況が重なるとさすがの鍋島も大胆な行動には出にくい。しかしこのタイミングで久美子が外出となると、彼女との接触は俄然容易となる。鍋島は即座に黒尽くめの服をまとって部屋を出た。
外は茹だるような暑さであった。通りを行き交う人間は皆、半袖姿。その中で全身黒でニットキャップの鍋島の姿はその場から浮きそうなものだが、何故か彼の存在に目を留めるものはいなかった。それもファッションビルの側という個性的な服装をした人種の坩堝ということが要因なのだろうか。鍋島はビル側の物陰に身をおいて、腕時計に目を落とし誰かを待つ素振りを見せながら、職員通用口から久美子が現れるのを待った。
しかし待てど暮らせど彼女の姿が見えない。
ーなんだ?何故出てこない。
ポケットからスマートフォンを取り出して、先ほど部屋で見ていた久美子の店を俯瞰で抑える映像に目を落とす。そこには彼女の姿はない。
ーふっ、俺としたことが先走っちまったか。鞄抱えてるからって外に出るとは限らないよな。遅めの昼ってところか。
スーツ姿の男がふたりビルの通用口から出てきた。
「あー今日はもうやめ。」
「え?」
「やめやめ。今日はもうやめ。」
「先輩。こんなこともありますよ。」
「だら。こっちはこの日のために提案書作って来てんぞ。それなんにいざ商談っていうげんに今日一日休みやってなんねんて。」
「仕方ないじゃないですか。先方が体壊したらどうにもなりませんよ。」
「んなこと言ってもなぁ、一報くれても良くないけ?」
「まぁ…。」
「そりゃ人それぞれ突発的に何かあるわいや。けど社会人として予定キャンセルする時はそれで連絡くらいくれんと。」
「先輩いいじゃないですか。また会えるんやし。」
「あ?」
「ほら、山県店長って美人でしょ。俺タイプなんスよ。」
「まぁね…。確かにね。」
「またアポとって行きましょうよ。ね。」
ー今日は休み…だと…?
「くそー美人って得やなぁ。」
「お詫びにお茶でもどうですかとか…。んなことあり得ないっすよね。」
ーじゃああの映像はなんなんだ…。
鍋島は再びスマートフォンに目を落とした。
ーまさか…。
「あり得んやろ。」
「そうっすよね。」
「でもあんな綺麗な嫁さんが家におったらなぁ。」
「俺やったら会社休んで看病しますよ。」
「じゃあ俺も。」
「あん?何言っとれんて。仕事やわいや。あ?北署から連絡あった?…何やって…。おう。ほうやろ。それ以上何も言わんやろ。そうやってあいつら俺が仕事サボって家に帰ったりしとらんか探っとれんて。おう。まぁ確かに…そんな電話なんか今まで一回もなかったけどな。まぁ何かと締め付けがきつくなっとれんて。警官の不祥事とかあるがいや。」
車の中で電話をする岡田の姿があった。
「まさかお前、俺が仕事行くふりして実はいつの間にか警察辞めてましたみたいなこと疑っとるんか?んなことねぇから心配すんなって。」
電話を切った岡田はため息をついた。
「実質辞めたも同然ねんけどな…。」
運転席を倒して彼は天井を見つめた。
今回の件においてはかつてない秘匿性が要求されとる。ほやからお前との直接的な接触も基本的にできんがや。んでもちろん捜査の全体像も協力者全員に明らかにすることができん。限られた人間による隠密捜査や。とてつもないでけぇヤマなんや。頼むぞ。
「でかいヤマね…。若林に啖呵きって出てきた俺にとっては、このヤマ凌いでも手柄にはならんしな…。」
身体を横に倒して彼は窓の外を眺めた。
「実際のところ、この先、俺どうやって食っていけばいいげんろ。やっぱ警備員ぐらいしか仕事ってないんかな…。」
その時である。岡田は動きを止めた。
「なんやあいつ。」
彼の目にはある人物の後ろ姿が捕捉されていた。
久美子の身の安全は、今回の戦いにおいて最重要課題なんや。
「え?」
とっさに岡田は写真を取り出した。金沢銀行で入手した経営企画部長藤堂豪の顔写真である。痩せこけた頬と切れ長の目が印象的な男だ。だがいま目の前に見える男にそれらの特徴を見出すのは困難である。何故なら彼はサングラスをかけているためだ。続いて岡田は写真の藤堂の口元を見た。どちらかというとちょっと前に突き出るような形で、唇はすこし厚みがある。彼はその特徴を目の前にいる男のものと照合するため、オペラグラスを手にしてそれを覗き込んだ。そしてそこで岡田は息を呑んだ。
ーまさか…。
再び手元の写真に目を落とし、前方の男の口元と照らし合わせる。
ー似とる…。形が似とる…。
岡田は戦慄した。
ーまさか…あれが藤堂…。
男の動きに不審な点はない。思わず目が行くのはその季節感を度外視した黒尽くめの出で立ちと、ニットキャップ姿である。それさえ目を瞑ってしまえば彼は単なるいち通行人。そう周囲の人間は思うだろう。男は携帯電話を手にし、通話口を手で覆った。すると山県邸の中から三回の呼び出し音が聞こえた。おそらく目の前にいるこの男が久美子本人が家にいるかどうかを確認するために電話をかけたのだろう。その後男は何かを話して直ぐに電話を切り、その場から姿を消した。その様子を確認して、岡田は携帯電話を手にした。
「おう。どうした岡田。」
「とりあえず誰に報告していいか分からんので古田さんに電話しました。」
「マスターから聞いたんか。」
「ええ。」
「で、なんや。」
「藤堂と思われる奴が山県の家の前に。」
「…とうとう出てきたか。」
「ただ本人かどうかは分かりません。」
「…どんな格好しとる。」
「黒のブルゾン、黒のパンツ。頭にはニット帽。丸型のサングラス。」
「丸型のサングラス…。」
「はい。」
「偉い目立つ格好やな。」
「ええ。」
「奴は。」
「家の中に人がおらんかだけ確認して、そのまま立ち去りました。」
「他には。」
「何も。」
「よし。」
「え?」
「岡田。ご苦労さんやった。このままお前は久美子に付いとってくれ。」
「え?それだけでいいんですか。」
「ああ。」
「古田さんは。」
「ワシは藤堂をおびき寄せる。」
「え?おびき寄せる?ちょ、ちょっと待って下さいよ古田さん。あいつの目標は山県久美子でしょう。」
「いいや。これであいつの目標は変わった。」
山県邸を後にした鍋島は近くの停留所で偶然停まったバスに乗り込んだ。そして彼は進行方向を見て右手の中央部の座席に座った。
ー店の様子を中継するカメラに久美子の姿が映っていた。これは久美子が今日出勤していることを示す。しかしあいつは今日は休み。家に電話をすると女が電話口に出た。
「はい。もしもし。…もしもし?…もしもし?」
ーあの声は紛れも無く久美子。となると…店に設置されたカメラは…。
「偽物。」
ーまさか…相馬の奴…
「ありがとうございます。」
「止めろ。」
「いえ。これぐらいせんと示しがつきません。」
「俺は橘に仕事を依頼しただけだ。お前に礼なんか言われる事はしていない。」
「私はコンドウさんの事一生忘れません。」
「所以别闹了  だからやめろ。」
「这对我是永远的回报   このご恩は必ず返します。」
鍋島は拳を強く握りしめた。
裏切り者には死の制裁が必要だな。」
その言葉とは裏腹に彼の頬に一筋の伝うものがあったことを誰も知る由もなかった。