第六十八話

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第六十八話
五の線2 第六十八話
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「山県久美子を雇うように古田さんに働きかけられた?」
「そうよ。熨子山事件の後、あの人ここに来て私に写真一枚見せて、この女雇ってくれないかって。」
「え?マスターは久美子と既に面識があったんですか?」
森は首を振った。
カウンター席に移動した岡田は出されたサンドイッチを頬張った。
「トシさんから久美子の事聞かされたときは、そんなひどい事って本当にあるのって感じで、半信半疑だったわ。」
「あ、ええ…。」
「けど、あの娘に実際会ってみるとそれが本当の事だったんだってすぐに分かったの。あの子の顔から表情が無くなっていたもの。」
「…そうでしょうね。」
「悪魔みたいな連中に弄ばれるだけでもとんでもない心の傷を負ってるっていうのに、その悪魔たちを懲らしめようと動いていた久美子の彼が、あいつらに返り討ちにされたんだから。」
森は細身のタバコを吸い始めた。
「私ね。こう見えても子供いるの。」
「あ…え?」
「女の子よ。今は東京の大学行ってそっちで就職してるけどね。」
「じゃあ…。」
「そうよ。当の本人が本当のところどういう感情を持っているか理解はできないけど、あの子の親の気持ちは痛いほど解る。この子をこのままにしておけば、本当に流れに任せて久美子は廃人になってしまう。ひょっとしたら自ら命を断つなんてことも考えられるわ。久美子がそうなってしまうと彼女の親はもちろん、死んでしまった彼も浮かばれない。それだけはなんとかできないかしらって。」
森はコーヒーに口をつけた。
「でも今まで会ったこともない赤の他人の面倒を私が見るなんて、ちょっと難しいじゃない?」
「そうですね。寧ろそれだけ心の状態が重症な人には然るべき病院の方がいいような気がします。」
「そうね。それが常識よ。でもね。」
「はい?」
「トシさんは久美子のことを全部調べた上で、雇ってくれって言ってきてたの。」
「と言うと?」
鍵が掛かった引き出しを開き、森は中から封筒を取り出した。
「御覧なさい。」
岡田は封筒を手に取った。中にはびっしりと書類が入っている。彼はそれらに目を通し始めた。
「ねぇ、警察ってここまで私らのこと調べ上げれるの?」
森の言葉を受けて岡田は手を止めた。心なしか彼の手が震えているように見えた。
「…いえ…。これは凄い調書です。」
「…やっぱりね。あの人、なんか普通の警察と違うって思ってた。」
岡田が手にする書類には文字通り、山県久美子に関する全てが記載されていた。家族構成、地縁、血縁はもちろん、過去から現在に至る交友関係、趣味、好きな食べ物、日々の行動経路、性格、思想、癖に至るまでのものが網羅されたまさに個人を丸裸にするものだった。
「私がこれを渡されたのは、あの娘に会う前のこと。不思議でしょ。山県久美子って人間に会ってもないのに、その娘がどういう娘なのか手に取るように分かる。」
「ええ…。」
「あの人、この間、私が結婚して子どもがいるって事知った時に意外そうな反応してたけど、当時からきっと私のことも久美子みたいに調べつくしてたんだわ。」
「どうしてそんなことが?」
「私には娘が一人いる。それがいま東京で仕事してる。でもねその娘の前にカミさんは身籠っていたの。」
「え?」
「流産よ。」
煙草の火を消した森は暗い表情を見せた。
「そうだったんですか…。」
「それがあってからウチのカミさんは出産にトラウマ抱えちゃってね。なかなかそんなこともできなくて。結局いまの娘産むまでそれから10年かかったわ。」
「そうですか。」
「おかげさまで23の私の娘は就職までして元気にしてる。けどやっぱりどこかで流れちゃった子どものことを考えちゃうの。トシさんそこにぶつけてきたんだわ。その子が無事出産してたら久美子と同じ34才よ。」
「なるほど…。」
「その書類読んで山県久美子って子の全てを知ってしまったら、他人って感じにならないの。まんまとトシさんの思惑通りにあの子を雇うことになったわ。」
「しかし、久美子は心に傷を抱えとる。そんな彼女をどうやってあなたは今のように立ち直らせたんですか。」
「私がなにかをしたんじゃないの。彼女が自分で克服したのよ。」
「え?」
「あの子ねウチのお客さんだったの。自分がもともと好きなモノに囲まれて仕事をする。これが彼女にとって良いリハビリになったんじゃないのかしら。きっとトシさん、そこら辺も想定してたんでしょ。」
「そこまで…。」
「ここまでトシさんの思惑通りだとちょっと私、あの人が怖くなっちゃう。」
「そりゃあ俺だって怖いですよ。」
「でもね。それってあの人がひとりで企てたことじゃないの。」
「はい?」
「トシさんの背後には大きな存在がいる。」
「え?なんですか?」
「五の線のひとつ。」
「え…。」
岡田は咄嗟に2日前の片倉とのやり取りを思い出した。
「ふーっ。まさかの五の線か…。」
「え?」
「いや、なんでもねぇよ。」
「なんなのかしら。五の線って…。」
「…あ、それの説明はマスターにはされとらんがですか。」
「そうなの。私はこの話を後で来るであろう、警備会社のあなたにしてくれってトシさんに言われただけ。」
「五の線…。」
岡田は顎に手を当てて考えた。
「あとね、これも伝えてくれって言ってたわ。」
「なんですか。」
森はちゃんと言えるかしらと言ってゆっくりと口を開いた。
「いまお前の前で起こっていることは、3年前の延長戦だ。」
「延長戦…?」
岡田の動きが止まった。
「山県久美子の身の安全は、今回の戦いにおいて最重要課題よ。だけど残念ながらこっちとしてはそれに人員を避けない。だからあなたの力が必要なの。」
(古田の声:久美子の身の安全は、今回の戦いにおいて最重要課題なんや。ほやけど残念ながらこっちとしてはそれに人員を避けん。ほやからおまえの力が必要ねんて。)
森の発言が古田のものに変換されて岡田に届いていた。
「結論から言うと三年前の事件でワシらが追っかけんなんもんは本多や村上じゃなかったんや。本当のところはもっと別の、さらに上位なところにあった。ワシはいまそれを追っかけとる。お前の知らんところでワシ以外の別働隊も動いとる。いまお前の目の前におるマスターもその別働隊のひとりや。こういったことをワシがお前に直接話しをして協力を仰ぐのが本筋なんやろうけど、今回の件においてはかつてない秘匿性が要求されとる。ほやからお前との直接的な接触も基本的にできんがや。んでもちろん捜査の全体像も協力者全員に明らかにすることができん。限られた人間による隠密捜査や。とてつもないでけぇヤマなんや。頼むぞ。」
(森の声:とてつもないでけぇ山なの。頼むわよ。)
「こういうことらしいの。」
岡田は拳を握りしめた。
「承知。」
そう呟くと岡田は森に手を差し出した。
「マスター。よろしく頼みます。」
森は彼と固い握手を交わし、それに応じた。
「なるほど。ようやく分かったよ。」
「なにが?」
「五の線ね…。」
「え?」
「やっぱりあいつ…生きとってんな…。」
岡田は何かを覚悟するかのような顔つきであった。
「なんかいい顔してるわね。さっきまでのあなたと違うわ。」
「待てよ…俺がこうやっていま、マスターと接触を図ることも古田さんは想定していたとなれば…。」
こう言って岡田は苦笑いを浮かべた。
石川電力能登第一原子力発電所の事務本部棟。そこの警備員室で交代の点呼が取られていた。
「えー昨日の夜からここに配属となった、派遣社員の大友さんや。大友さんは基本的に夜勤や。免震重要棟と予備電源のあたりを巡回してもらうことになっとる。これからは皆もシフトで大友さんと一緒に組むことが出てくると思う。各種端末の操作は一応一通り教えたんやけど、1回聞いたぐらいで完璧に分かる人間なんかおらん。ほやさかい、みんなは大友さんのフォローをしてくれ。」
「皆さんよろしくお願い致します。」
大友が挨拶をすると、その場に拍手が起こった。
「ほら、大友さん。ここの連中はみんな良い奴や。」
「心強いです。」
「おし、じゃあみんな持ち場についてくれ。」
警備責任者の号令でスタッフたちは散っていった。大友と同じく夜勤であった者達はここで帰宅の途に着いた。
「大友さん。家に帰る前にこれからの仕事の流れとかの話あるから会議室まで来てくれんけ。」
「はい。」
大友は事務本部棟の一室に通された。
警備責任者は部屋に入ると隅々を入念にチェックした。壁にかけられている絵画の裏側、電源コンセントの周辺、机の下などをしつこいぐらいに点検した。
「よし、いいだろう。」
そう言うと彼は椅子に座った。
「首尾よく行きましたか。三好さん。」
彼とテーブル越しに向い合って座った三好の目に胸元のネームプレートが入った。顔写真付きの名刺サイズのものである。役職は施設部施設防護課主任である。年の頃は40代といったところか。
「思いのほかスムーズに行けました。これも全て辰巳さんのスムーズな水先案内のお陰です。」
「じゃあそのワクチンをこっちに下さい。」
三好はポケットの中から小さなUSBメモリを取り出してそれを辰巳に渡した。
「この場で処分します。」
そう言うと辰巳はペンチを取り出してそれを粉砕した。
「一応ここは物理的にインターネットとは隔離されたシステムが構築されている。しかしだからといって安全じゃない。誰かが密かにこういったフラッシュメモリをオンサイトのネットワークに使用したら、それが元でマルウェアに罹ってしまうかもしれない。」
「辰巳さんのPC経由でオンサイトネットワークにワクチンを投与しておきました。マルウェアに仮に感染したとしても、現状想定できる症状はこれをもって防ぐことができるでしょう。」
「察庁謹製。さぞかし強力なもんなんでしょうね。」
「はい。」
「あと考えられるのは施設への物理的な攻撃と、更に強烈なマルウェアの感染か。」
「ええ。そのどちらも可能性がないわけではありません。ですがそのどちらの攻撃も、ここ原発敷地内でヒトを介さないとできません。」
「物理的な攻撃は外部からの侵入者をいかに防ぐか、マルウェアの方は組織内部の邪な人間の犯行をどうやって未然に防ぐか。ということですね。」
「はい。後者に関して今回一時的な予防策を講じました。なので後は辰巳さんのサイドで、例の人間の監視を行って下さい。私は前者の外部からの侵入に目を配ります。」
「わかりました。」
そう言うと辰巳は席を立った。
「あなたは警備畑の経験を活かして物理的攻撃に備えて下さい。施設防護課の課長には私から三好さん、もとい大友さんの動きに変な詮索は入れないように工作しておきます。」
「辰巳さんもイヌに気をつけて。」
「イヌね…。懐かしい言葉ですね。」
ズボンのポケットに手を突っ込んで、辰巳は窓の外を眺めた。
「気がついた時にはこの会社に入っていた…。」
「我々末端の人間にもわからない、公安捜査員の名簿から抹消された存在。潜入捜査官。」
「ふっ。」
「本当にこんな身分の人がこの世におったなんて。」
「これ以上の詮索は止めましょう大友さん。」
「ここが踏ん張りどころと聞いています。辰巳さんよろしくお願いします。」
辰巳はゆっくりと頷いた。