第六十二話

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第六十二話
五の線2 第六十二話
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「紛れも無く鍋島ってやつは化けもんなんや。」
「化物?」
「あの時、村上が病院で殺されてから、いろいろややっこしい事が起こったんですわ。」
こう言うと十河は3年前の熨子山事件当時を振り返り始めた。
ー3年前ー
村上が何者かに殺害されることで、解散を目前にした県警本部の熨子山連続殺人事件捜査本部に動揺が走った。この時すでに松永を始めとした本庁組は引き返していた。
「病院内の監視カメラは。」
捜査本部の陣頭指揮を執るのは朝倉忠敏のままだった。
「唯一犯行時刻少し前のエレベーター内のカメラに怪しげな男が写っています。」
「どれだ。」
捜査員は写真を朝倉の前に提示した。
「こいつか。」
「残念ながら監視カメラの画像が鮮明でないため、顔のつくりまでは特定できません。」
「まて。村上が入る病室の直ぐ側に捜査員を配置していたはずだ。そいつは何をやっていた。」
「それが…。」
「なんだ。」
「その警備担当の人間が忽然と姿を消しまして。」
「何?そんな馬鹿な話があるか。」
「現在、警備部が血眼になって探しています。」
朝倉は天を仰いだ。
「本部長。」
十河が口を挟んだ。
「次は何だ。」
「鍋島の件でどうにも気になる点があります。」
「鍋島?」
「はい。」
「鍋島は七尾で村上に殺害された。それ以上何もない。」
「いや、そこがどうもワシには腑に落ちんがです。だってそれはあくまでも状況証拠の積み重ねでしょう。」
「何を言っている。ガイシャの指紋と鍋島の指紋が一致した。」
「はて。ワシが見た感じですと、似ても似つかぬ指紋のように思えますが。」
「なんだ。お前は鑑識の分析に疑いを持つとでも言うのか。」
「いえいえ。そういうわけじゃ無いんですが、なんか違うと思うんですよ。」
十河は何枚かの書類を朝倉の前に差し出した。鑑識が出した指紋鑑定書である。
そこには七尾で発見された鍋島のものと思われる遺体から採取された指紋と、鑑識課のデータベースから出力された指紋があった。
「本部長もご存知でしょう。12点特徴法。」
「お前はここで俺に説教でも垂れようって言うのか。」
「いやいや。そんな差し出がましいことはしません。ただ鑑識の鑑定結果にどうも不備があるように見えて。」
「手短にしろ。」
「はい。」
十河は窓にガイシャの指紋を貼り付けた。
「これがガイシャの右人差し指の指紋。」
そう言うともう一枚の指紋を取り出して、その上に貼り付けた。医者がシャーカステンにレントゲンのフィルムを貼る要領である。
「どうです?違いませんか。」
しばらく無言で指紋を眺めていた朝倉は口を開いた。
「どこがだ?」
「え?本部長。12点法ですよ。」
「何言ってるんだ。鑑識は最新の技術で候補の指紋を抽出し、最後はその方法を持って目視で同一の指紋と判断したんだ。それを貴様は違うと言い張るのか。」
「いや、ですからこの指紋には11の特徴しか適合しないんです。どう頑張っても残り1つの適合を見いだせん。よって鑑識で保管する鍋島の指紋と七尾で殺された人間が同一であると言い切れないと言ってるんです。」
「それはお前が決めることじゃ無い。鑑識の仕事だ。」
「いえ。ですから。」
「ならば貴様はあのガイシャが鍋島でなくて誰だと言うんだ。あのガイシャが鍋島でない証明をしろ。」
「ですから、12点法をもって見るとそれが証明できると思いますが。」
「だからその方法を持って鑑識は鍋島だと判断したんだ。」
ー何なんやこの本部長の詭弁は...
「貴様が言いたいことは何なんだ。俺は現場の勘についていちいち差配する程今は余裕が無い。そう言うことは担当部長を通せ。」
ー何言っとるんや。刑事部長は死んだままやろう。
「貴様、所属は。」
「組織犯罪対策課。十河兼親です。鍋島惇は仁熊会出入りの人間。あいつの事はワシはずっと追っかけとります。」
「鍋島は死んだ。お前たちも捜査にもう少し科学的な視点を持つように。退がれ。」
不自然過ぎる朝倉の態度に十河は不信感を抱いた。
指紋照合では12点の共通点が見いだせない場合は証拠として採用されない。これは国際基準でもある。七尾で殺された遺体と、警察で保有する鍋島の指紋の間に十河の12点法をもってして11点の指紋の一致しかを見いだせなかった。しかし朝倉はこの12点法を持って指紋が一致したと言い張るのだ。これが何を意味するのか。意味するものは3つの可能性だ。
ひとつは単純に十河の照合に誤りがあった可能性。ふたつ目は鑑識の手違いで別の指紋を一致と判断した可能性。最後に朝倉が恣意的に指紋の一致をつくりあげた可能性だ。
結局、鑑識が作成した鑑定書を持って七尾のガイシャは鍋島惇と判断された。
事件後間もなく朝倉は本庁へ転属となった。十河は知り合いの鑑識課の人間に当時の指紋をもう一度見たいと申し出る。そこである事実が判明する。
七尾のガイシャのものと一致するとされた鍋島の指紋のデータが別のものに置き換わっていたのである。
「おい。こんな事ってありえる話なんか?」
「いえ。ありえません。」
十河の背筋に冷たいものが流れた。
「なぁ、この話なかったことにしよう。」
「え?」
「こればっかりはワシの手に負えん。ワシとお前だけの秘密にしよう。」
「わ、わかりました。」
鑑識課から出たところで十河はダンボールを抱える片倉とばったり遭遇した。
「あ…。」
「よう。久しぶり。元気?」
「あ、はい。」
「何ねん。その浮かん顔。」
「いえ、何でもありません。課長の方こそどうですか。」
「あー俺は身辺整理。」
「え?」
「いろいろ世話になったな。十河さん。」
「え?どういうことですか?」
「あー俺辞めれんわ。」
「なんで?」
「ちょ、あんたそんなとこでボーッと突っ立っとらんと、手伝ってくれんけ。」
「あ…はい。」
「ちょ一緒に俺の車まで運んでくれ。」
十河が抱えたダンボールは思いのほか軽かった。
「お前、鑑識で見たんか。」
「え?何を?」
「惚けんな。鍋島だよ鍋島。」
「あ…。」
「あいつの指紋書き換わっとったやろ。」
「あ、はい…。」
「うさんくせぇな。」
十河は無言のまま片倉の車まで荷物を運んだ。ダンボールをトランクにしまった時である。十河は口を開いた。
「あんなんでいいがですか…。」
「あん?」
「このままでいいと思っとるがですか、課長は。」
「おいおいいい年のおっさんがデケェ声だすなや。」
十河は周囲を見た。同僚警察官がこちらの方を見ている。彼は声を潜めた。
「課長はこんな不自然な状態を放って逃げるんですか。」
「そうだと言ったら。」
「あんたも結局自分が可愛いだけの普通の人間やったんですな。」
「けっひどい言い草やな。」
「何がですか。」
「じゃあ聞く。お前はどうしたいんや。」
「これから民間に天下る人間に言う必要はないと思います。」
「俺はお前ひとりで何ができるんやって聞いとるんや。」
「これから考えます。」
片倉はため息をついた。
「十河さん。あんたは熱くて勇気がある男や。ほやから松永にも信頼された。…けどな、その勇気は時として向こう見ずな勇気になる。そのひとりの危険な振る舞いが敵の警戒を高め、別働隊の作戦遂行を妨げる。」
「別働隊?」
「ああ。」
「なんですかそれ。」
「興味あるか。」
「はい。」
「誓えるか。」
「え?」
「俺はお前にそのことを話す用意がある。しかしそれには条件がある。いまここで俺がお前に話すこと全てを心のなかに留めておけるという誓いを見せろ。」
十河は立ち尽くした。片倉の言葉の真意がいまひとつ分からなかった。誓いを見せろとはどういうことか。日頃組織犯罪対策課で暴力団と接点を持つ十河は、その世界における盃を交わすことを片倉が要求しているものだと判断した。しかしそれに類するものはこの場にはない。
「見せられんがやったらここでお別れや。」
片倉は車に乗り込んでエンジンを掛けた。
「ありがとさん。十河さん。」
「ま、待ってください。」
十河は運転席に駆け寄った。そして胸元から警察手帳を取り出し、それを地面に叩きつけた。
「これでどうでしょうか。警察に警察権を行使するには先ずはそこから飛び出さんといかん。」
エンジンを切った片倉は車から降りて、地面に落ちた警察手帳を拾い上げた。
「十河さん。おれは直に姿を消す。」
「なんやって?」
「公安に行く。」
「え?」
「チヨダ直轄マターを手掛ける。十河さん。おれのエスになってくれ。」
拾い上げた警察手帳を十河に手渡し、片倉はこう続けた。
「熨子山事件はまだ終わっちゃいない。村上の死を受けて別のステージに移行した。」
「別のステージ?」
「どうや。頼めっか十河。」
「無論。」