第五十八話

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第五十八話
五の線2 第五十八話
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岩崎と京子が待つ喫茶店に相馬が現れた。店の入り口でキョロキョロと2人を探す彼を見つけた京子が手を振ると、それに気づいた相馬は軽く手を上げてそれに応えた。しかし次の瞬間、彼の動きが止まった。そして目を擦り再び目を細めて京子の方を見つめた。
「え?」
相馬は辺りを見回した。閉店時間が迫っている喫茶店の客の入りようは疎ら。手を振っているのは紛れもなく京子だ。しかし彼女と向かい合わせで座って、こちらに背を向けているのは誰だ。メッセージには岩崎といるとあったが、まさかあれが岩崎だとでも言うのか。岩崎は伸ばしっぱなしの野暮ったい髪型のはず。しかし相馬の目に入っている女性は団子型に髪を纏めている。相馬は人気が無くなりつつある喫茶店の入り口に立ち尽くした。
「何なんあいつ。キョロ充かいね。」
京子はこう言い捨てて、今度は大きく手を振った。
ようやく相馬はこちらの方にやって来た。そしてお団子ヘアの女性の後ろ側に立った。
「乙。」
「おっつー。ってか何なん。そんなとこに突っ立っとらんと、ほらこっち座ってま。」
「あ、おう…。」
相馬は京子の横に座って、恐る恐る向かい側の女性を見た。
「うそ…。」
髪を上で纏めているため、端正な顔立ちがさらに際立った岩崎がそこにあった。
「ごめん。急に来てもらって…。」
相馬は視線を徐々に下ろした。
白のシャツにマゼンタ色のカーディガンを羽織り、腕まくりをしている。第2ボタンまで外されたシャツが力の抜け具合を感じさせた。そしてボタンが外されたシャツのその先には、胸の谷間に光るシルバーのネックレス。相馬は思わずそこに視線が釘付けになった。
「おい。」
隣に座っている京子が思いっきり相馬の肩を叩いた。
「痛っ!」
「なに鼻の下伸ばして特定部位ばっかみとらん⁉︎」
「え?何のことけ?」
「香織の胸ばっか見て。」
「何ぃね。見とらんって…。」
相馬は視線を逸らした。しかし次の瞬間、再び自分の目が岩崎の胸元に照準を合わせていた。
「香織ちゃん。ダメやわ。ここはちょっと閉めたほうがいいわ。」
「う、うん。」
岩崎は京子に言われた通り、シャツの第2ボタンを締めた。
「あ…。」
無意識のうちに相馬からか細い落胆の声が漏れた。
「あ…。じゃないわいね。周、見るとこ違うやろ。」
「何ぃね。ってか…人って変わるもんやね。」
この発言にようやく京子は笑みを浮かべた。
「ほうやろぉ。私のプロデュースねん。」
「すげえ。マジでスゲぇよ。岩崎さん。」
京子は机から自分の肘をかくんと落とした。
「え?私じゃなくって?」
「やべぇわ。俺、なんかスゲぇ綺麗なもん見とる。」
「ちょっと…相馬くん。言い過ぎよ。」
シャツのボタンが閉められたにも関わらず、相変わらず岩崎の胸元をチラチラ見る相馬を横目で見て、京子は呆れた顔をした。
「これ…全部、京子ちゃんがコーディネートしてくれたの。だからこれは京子ちゃんの作品。」
「へー。あ…。」
ようやく相馬は視線を京子に移した。彼女は憮然とした表情で相馬を見返した。
「さすが京子先輩。」
「遅いわ。このエロ親父。」
「親父じゃねぇし。」
「どうけ。こんな感じの香織ちゃんは。」
改めて岩崎の全体像を見直した相馬は、彼女のあまりの変わりようにため息をついた。
「なんか分からんけど。京子ちゃんのプロデュースってスゲぇんやって思った。だって今までの岩崎さんと全然違うんやし。」
「具体的に?」
「うーん。何ちゅうか。えーっと。ほら、今までの岩崎さんは岩崎さんで綺麗な人やなって思っとったけど、これで、ほら、あれ。取っ付きにくい感じがなくなった。」
「うんうん。で?」
「えーっと、こう言っちゃああれなんかも知らんけど、清潔感が出たっていうんかな。かと言って人を寄せ付けん感じの清潔感じゃなくって、洗練された感じ。ああ、そうそう都会的って言うんかね。」
「おーいいとこ突くね君。」
「んで、残念な事に今は締められてしまったボタンを外す事で、女らしい魅力に磨きがかかる。」
「うん。因みに周はそこだけガン見やったんやけどね。」
「う…。」
「これ、長谷部見たら何って言うかな。」
「長谷部?」
相馬はこう言って岩崎を見た。彼女は顔を赤らめて俯いた。
「え?」
「えじゃないが。」
「はい?」
「はいじゃないが。」
「マジで?」
岩崎はゆっくりと頷いた。
相馬は思わず天を仰いだ。
「今まで香織のこと口説きに来た男連中いっぱいおったらしいけど、どいつもこいつも下心満載やってんて。けど、長谷部は違うんやって。」
「え?どう?」
「その辺りは本人から直接聞いて。」
岩崎は相馬と目を合わせないようにゆっくりと口を開いた。
「あの人だけなの…。」
「何が?」
「私の気持ちに寄り添って近づいてきたのは。」
「岩崎さんの気持ちに寄り添う?」
「相馬くんは一回来た事あるよねコミュ。」
「あ、ああ。」
「あそこであなたがどういう感情を抱いたかは、私にはわからないけど、ご覧の通りいろんな悩みを抱えた人があそこに来る。そして思い思いの心の叫びを他者に打ち明けるの。」
「…そうみたいだね。」
「心の傷を他人に見せるって事は実は大変なことなの。全面的に自己否定するからね。だからそこには凄いエネルギーが生じる。そう負のエネルギー。」
淡々と話す岩崎の表情は浮かないものだった。
「私はコミュが催されるたびにそれらの強烈なエネルギーを受け止めてきた。そう、受け止め続けてきた...。」
「キツイね。」
岩崎は透き通る目で相馬を見た。そして紅茶に口をつけてため息を吐いた。
「コミュに参加したての時期はそうでもなかったの。私みたいな存在でも話を聞くだけで他人の役に立つ事ができるんだって。でもね、気がつくと私は削られてた。他人の負のエネルギーを受け止め続ける事で私キャパオーバーしてた。それをあの人は瞬時に見抜いた。」
岩崎と長谷部が近づいたきっかけの件は本人から聞いている。ここで相馬は岩崎の発言を切った。
「何であいつが岩崎さんの心理的状況を掴みとれたか。」
「そうそれよ。」
「それはあいつが君に本気やから。」
岩崎は絶句した。
「他人を好きになることに理由なんかない。好きになってしまったらその相手を所有したい。所有したものは大事にしたい。大事にするには相手のいろいろな問題を解決したい。若しくは手助けしたい。そのために相手を知りたい。その相手が何故か惹かれた浮かない顔をしとる。現状を把握してその問題を少しでも解決させたいって気持ちが、長谷部の観察眼を研ぎ澄ませた。そんなところじゃないんかな。」
岩崎は黙って相馬の言葉に耳を傾けた。
「ほやから岩崎さんがもしもあいつに特別な感情を持っとるんやったら、君もあいつの事を知った方がいいんじゃないかな。」
「私が…。」
「ほらまだ会ったばっかりやろ。ほやからとりあえず連絡取り合って会う機会増やすとか。それこそコミュじゃないけどコミュニケーションをとるのがいいんじゃないけ?実際よくよく話してみると、大した人間じゃなかったって事になるかもしれんし、逆にそれこそ自分が持っとった感情は確かなもんやったって確信に至るかもしれん。」
ここで相馬は言葉を止めた。岩崎に語りかけているこのセリフは自分自身にも響いていた。そう京子である。相馬は京子に好意を抱いている。そしてその彼女も自分に対して同じ感情を抱いている事も知っている。お互い幼少期からの間柄。自分が今、岩崎に吐いたセリフの中のお互いを知るという過程はとうの昔に経ている。にも関わらず、相馬は京子との間にお互いが好いているという合意形成ができないでいる。
ふと相馬は京子を見た。彼女の表情はどこか浮かないものに見えた。
「でも相手を知る作業をいくら繰り返しとっても、絶対的な解は導き出せん。ほやから最後はこの人と一緒におったらなんか知らんけど楽しいわとかっていうすっげぇ抽象的なもんでえいやって合意形成せんといかんげんろうね。」
「合意形成?」
「例えばコクるとか。」
このタイミングで店の人間が閉店時間のため退店してくれと言ってきたので話は途切れた。店を出て場所を変えて話の続きをと相馬は言ったが、岩崎は用事があるとのことで、ここで別れることとなった。彼女を見送った相馬と京子は最寄りのバス停に向かった。
バス停に着き、京子が口を開いた。
「こんなんでいいんかね。」
「…わからん。」
「なんか長谷部とか香織ちゃんの気持ちを利用しとるみたいで、やっぱり私あれやわ…。」
「…。」
「でもやるしかないもんね。」
「そうやな。」
相馬は京子の肩をぐっと引き寄せた。
突然の事に驚きながらも、京子はそれに抗わなかった。
「ごめんな。京子ちゃん。今まで。」
京子は何も言わない。
「好きや。」
京子はそのまま相馬に身を委ねた。
「私も…。」
「やれるだけやってみようよ。あの人の言う通り。そうしたらきっとなんか良い方に動く気がする。」
「そうやね…。」
「だってそうせんと…あの子にとってよくない事が起これんし…。」
バスが来るまで京子は黙って、そのまま相馬に身を寄せていた。