第五十六話

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第五十六話
五の線2 第五十六話
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「ぇっくしょーい!!っおらくっそー。」
威勢のいい声が2DKの間取りの全ての部屋の中にこだました。
「えーま、やっかましーな相変わらず。」
無線の音が鳴り響く6畳間に寝転んで壁にはられた無数の人物の顔写真を眺めていた片倉がぼやいた。その時である。彼の胸元が震えた。
片倉はおもむろに携帯電話を取り出してそれに目を落とすと身を起こした。
「三好と接触…。」
同じ部屋にいる神谷には片倉の声は届いていない。彼は相変わらずヘッドホンを両耳に当てて何かの音源を聞いているようだった。
「マサさん。」
襖を開けると居並ぶパソコンの前に座り、鼻をかむ冨樫があった。
「あぁ課長すんません。風邪ですかね。」
「違うよ。」
「え?」
「三好さんだよ。」
冨樫は鼻をかむ手を止めた。
「いよいよあんたからのレクを使う時があの人にやって来た。三好さんは今日からあそこに潜り込む。」
「いよいよですか。」
「ああ。」
鼻紙を丸めて冨樫はそれをゴミ箱に投げ入れた。
「邪魔ないか。あの人は。」
「邪魔ありません。ワシが言うのもなんですが結構な手練ですよ。」
「ほうか。」
片倉はニヤリと笑った。
「ありがとうございます。課長。」
「あん?」
「課長のお陰で三好のやつも浮かばれます。」
「おいマサさん。これからやって。あそこに入り込んであの人がしっかり食い止めてくれんと全部ぱあねんし。」
「そんなところであいつはヘマしません。そのために今までワシが手取り足取り教えてきたんですから。」
「ふっ。」
冨樫はパソコンのエンターキーを勢い良く押し、眼光鋭くモニターを見つめた。
「ワシは絶対に許せんがですよ。」
「…。」
冨樫の目の先には朝倉忠敏の顔写真が表示されていた。
「朝倉…。」
片倉はタバコに火をつけた。
「まさかあなたがあの男に引導を渡す役目を仰せつかっているとは、ワシは露ほども思わなんだ。」
「ふーっ…。あの当時は朝倉と連携して俺は粛々と捜査を行った。あいつがそんな存在とは全く知りもせず。」
「ワシはあんたもあいつとグルなんやと思っとった。」
「まぁそう思われてもおかしくねぇ。事実俺もあの事件を踏み台にして成り上がった人間やからな。」
「捜査を外されたにも関わらず、朝倉の指示で影でこそこそして捜査継続。あんたは見事村上を検挙。部下の手柄は上司の手柄。朝倉もそれを評価されて異例の本庁戻り。」
「それからあの人は公調へ部長待遇で出向。そのタイミングで俺も県警の公安課。組織は違えど同じ公安畑やから、あの人と俺がツーツーやって思われても仕方ねぇわな。」
「ほやけど違った。」
片倉は煙草の煙を吹き出した。
「あんたは着任早々ワシを呼び出した。」
「あんたが冨樫か。」
冨樫は片倉と目を合わせない。
「あんた三好さんと懇意なんやってな。」
「だから何なんですか。」
「三好ファイルを俺に見せてくれ。」
「え?」
唐突な片倉の申し出に冨樫の表情がこわばった。
「三好警視が独自に取りまとめたツヴァイスタン工作員リスト。」
「なんでそれを。」
「朝倉はそれを黙殺した。」
「え…いま何って?」
「ファイルの存在に危機感を抱いていた朝倉は、その情報の秘匿と引き換えに三好さんを県警の警備部警備課長に抜擢。奴を懐柔。だろ?」
「なぜ…それを。」
「しかしそれ以降も三好さんは事ある毎にチクチクツヴァイスタン絡みの情報を上げてきた。三好さんの情報収集能力は高かった。そこで朝倉は三好さんの存在を疎ましく思う。そんな中、熨子山事件が発生。朝倉は警備担当の三好さんに重要参考人である村上の検問情報を改竄するよう指示。忠犬三好は命令通りそれを実行。しかし捜査が大詰めを迎えた時にそれを朝倉自身の手で暴かれ、結果として三好さんは排除された。」
淡々と事の真相を説く片倉を前に冨樫は言葉を失った。
「ひでぇ話や。都合が悪い情報には蓋。自分から餌をチラつかせて接近し、頃合いを見て抹殺。」
「…。」
「あんた。友の仇をその手でしょっぴきたいと思わんか?ん?」
「申し訳ございませんが、課長の仰ることがいまひとつ…。」
「冨樫さん。力貸してくれ。」
片倉は冨樫の目を見つめた。それは冨樫が抱える心の機微を全て掴み取るほど鋭くも包み込むような眼差しだった。
「ゼロ。」
「え?。」
「冨樫さん世代にはこう言ったほうがいいか。」
「なんですか。」
「チヨダ。」
「チヨダ…。」
「こいつはチヨダ直轄マターや。ここの誰にもこの件は教えるな。俺とおまえだけの秘匿案件や。」
冨樫はゆっくりと頷いた。
「あれから三年。ワシは実家の方に帰る度に三好と接触してあそこの施設、設備、人員、業務それら全てをレクしてきた。」
「それがこの数日に試される。」
「課長。三好を信じてやってください。」
冨樫の目を見つめた片倉は頷いた。
「三好さんは元同僚。んでマサさんの親友や。信じて当たり前やろ。」
「そのセリフ男前すぎますよ。課長。」
「何も出んよマサさん。ははは。」
金沢銀行からほど近い場所に市立図書館がある。朝倉忠敏はここの窓際のベンチに腰を掛け、経済新聞に目を落としていた。さすがに図書館だ。耳に入ってくる音は人が歩く足音、咳払い、紙が擦れる音ぐらいだ。外の喧噪はここでは全く感じられない。静寂という名の別の音が流れているようである。
新聞紙をめくり社会面を開いた時である。彼は隣に人の気配を感じた。
「久しぶりだな。」
彼の横に音もなく腰を掛けたのは古田だった。
彼はおもむろに鞄の中から一冊の本を取り出してそれを朝倉に渡した。
「今川に関する全てがここに入っています。」
全400ページはある本を開くとその中はカッターか何かで長方形にえぐられており、そこに一本のUSBメモリが収納されていた。
「ご苦労さん。後で精査する。」
こう言って朝倉はそれを自分の鞄にしまった。
「いつこちらへ。」
「昨日だ。」
「片倉とは会ったんですか。」
「ああ。相変わらず元気にやってるようだった。」
古田はポリポリと頭を掻いた。
「今の仕事場はどうですか。」
「まぁあんなもんだ。」
「こっちの方に来るとかつての刑事魂に火がつく。なんてことはありませんか。」
新聞紙を折り畳んだ朝倉はため息をついた。
「昨日、一色の墓に行ってきたよ。」
「そうですか。」
「返す返すも惜しい男を亡くした。」
「そうですね。」
「俺はその優秀な人材の命を守れなかった。ここに来ると自分の無力さを痛感する。トシさんが言うような刑事魂なんてもんはこれっぽっちも湧いてこないよ。」
「だがあなたは今川の動向を監視している。」
図書館の扉が開かれ、ホームレスと思われる身なりの男が異様な臭気を漂わせて現れた。彼はそのまま2人が座るベンチの近くにあるソファにどっかと座り、腕を組んで目を瞑った。
「マルホン建設に外部監視の目を入れさせようと、山形有恒を介してドットメディカルの血を入れさせたのは一色の企て。当初はその思惑通りに事は進んでいたと思われたが、まさかあそこに既に今川が入り込んでいたとはな。」
「ノーマークでしたよ。あいつは。」
「仕方がない。公安マターだ。」
「部長は当時からツヴァイスタンと今川の関係性をご存知で?」
「知るわけないだろう。チヨダは本部長もすっ飛ばしだ。」
「やっぱりそんなもんなんですな。」
「ああ。そんなもんだ。」
眠りについたのかホームレスの男はいびきをかき始めたため、朝倉の表情は鬱陶しげなものになった。
「外務省のキャリア官僚であるにもかかわらず、今川は何故かわけのわからん外国勢力と手を組みました。それが何故なのか。その大体がこれを見れば分かるようになっています。」
「本人以外の情報は。」
「そのあたりもひととおり網羅しています。」
朝倉はふっと息をついた。
「さすがだなトシさん。丁寧な仕事だ。」
「恐れ入ります。」
「片倉はどうやらトシさんを心配しすぎだ。」
「はい?」
「あいつ、あんたの歳を気遣っている。」
「大きなお世話ですわ。」
一笑に付す古田につられて朝倉も笑った。
「このネタ、片倉には。」
「まだです。ワシに依頼をかけてきたのは部長が先ですから。」
「すまんな。」
「どうするんです。」
「ん?」
「片倉らの公安と連携するんですか。」
「そうなるだろう。このネタは俺の方で処理させてくれ。俺から公安へ提供する。悪いが片倉の方には適当なネタだけ掻い摘んだものをやってくれ。」
「わかりました。」
席を立った古田は朝倉に軽く会釈をして朝倉に背を向けた。
「トシさん。」
足を止めた古田の背後から朝倉が声をかけた。
「トシさんは孝行息子をもったな。」
後頭部をまたも指で掻き古田は振り向くこと無くそのままその場を後にした。