第五十五話

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第五十五話
五の線2 第五十五話
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「暫く休みがほしい?」
「はい。」
経営企画部部長室のソファーに掛ける山県有恒の前に佐竹は立っていた。
「理由は。」
「体調不良です。」
山県は佐竹の目を見て黙った。
「まさかお前、辞めるとか言うんじゃなぇやろな。」
「休んでから考えます。」
老眼鏡を掛けていた山県はそれを外し、鼻の付け根を摘んだ。
「守衛コロシの件と、システム侵入の原因究明もまだやっちゅうげんに、責任者のお前がこのさなかに休暇をとるんか?」
「藤堂豪って男が何らかの方法でウチのシステムに侵入し、部長の情報を自分のものにすり替えた。そしてついでにコンドウサトミの情報も消し去った。それ以上でもそれ以下でもありません。」
「結果があるのは原因があるからや。それを解明するのがお前の仕事やろ。」
「はい。」
「じゃあなんでそこで尻尾を巻く。」
「ここから先は金沢銀行は関係ありません。私こと佐竹康之の個人的な問題です。」
椅子に深く身を委ねた山県は佐竹をじっと見つめた。
「…鍋島か。」
佐竹はゆっくりと頷いた。
「お前はその鍋島が藤堂であると。」
「ええ。」
「証拠は。」
「ありません。」
「勘か。」
「はい。」
山県は深く溜息をついた。
「ただのヤマ勘じゃありません。響くんです。」
「どう響く。」
「言葉では言い表せません。ですが感じます。」
「言え。言えんがやったら却下や。」
「なぜ?」
「確たる理由がないがに、渦中の情報管理課の責任者がドロンっていうのは人事の司の俺は認めん。」
「私の不在時はご心配なく。真田と武田がしっかりやってくれます。」
「何言っとらんや。出向組だけでプロパーの行員がおらんくて、どう対面保つんや。」
「部長。」
「何や。」
「私の言っている事がわからんのですか。」
「あん?」
「私は藤堂が鍋島だって言ってるんですよ。」
「だからどこにそんな証拠があるんやって。鍋島惇は現に三年前の熨子山事件で村上によって殺されとるんやぞ。」
「証拠なんか必要ですか。」
「何?」
「俺はあなたの娘さんを付け狙う男をこの手で引っ張りだそうって言ってるんです。あなたの娘さんをレイプした疑いがある男です。」
「佐竹…。」
「ひとりの人間を守る。ただそれだけのことです。そのために休みが欲しいだけです。」
強引である。佐竹という男は自分の直感だけを根拠に行動を起こそうとしている。ひょっとすると佐竹の病気が彼をそうさせているのかもしれない。
「お前の気持ちは嬉しい。ほやけど俺は心配なんや。」
「は?」
「もしもお前が言っとるように、藤堂が本当に鍋島やったら、それこそお前にも危険が及ぶ。久美子を守るがためにお前に何かがあったらどうするんや。それこそ一色の二の舞いやがいや。藤堂と鍋島が同一人物やって証拠なんか本当のところどうでもいい。別にお前がそこまで全面に出る必要ないやろう。」
「いえ。部長。これは俺の問題ですよ。多分。」
「お前の問題?」
「言ったでしょう。響くって。」
佐竹は拳を目の前で握りしめた。
「あの時と同じなんですよ。」
「あの時?」
「疾きこと風の如く 徐かなること林の如く 侵掠すること火の如く 動かざること山の如し。」
「孫子か。」
「ええ。これを昔、肌で感じましたことがありました。」
「何のことや。」
「鬼ごっこですよ。」
「は?」
「山全体を使った壮大な鬼ごっこの中で、俺はこいつを肌で感じたんです。」
鬼ごっことは一体佐竹は何を言っているのか。彼の言葉の意味が分かりかねる山県は首を傾げるだけである。
「そんなあいつが三年の時を経て再び動き出した。三年の山の時を経て。俺と赤松を生活を侵掠するためにね。」
そう言うと佐竹は胸元から白封筒を取り出して、それを山県の前に差し出した。
退職願である。
「おい。お前。これはさすがに受理できんぞ。」
「部長。虫のいい話ですがこれを受理する時は俺の身に何かがあった時にしてください。退職金は美紀にお願いします。」
「ま、待て。佐竹…。」
「ご心配なく。久美子さんには手を出させません。こっちはこっちで手を打っていますから。」
佐竹の顔を見て山県は気がついた。彼が未だかつて見たことがない清々しい表情をしているのを。
山県は佐竹の休暇願いを受け入れるしかなかった。
経営企画部部長室を背にした佐竹は、背広を脱ぎ、それを肩に担いでこう言った。
「兵とは詭道なりか…。」
能登半島の付け根の西に位置する羽咋市。この千里浜から宝達志水町の今浜までの約8キロ区間の浜辺には千里浜なぎさドライブウェイという全国的にも珍しい浜がある。
ここの海岸の砂は特別細かく締まっており、普通の砂浜とは違って沈まない性質を持つ。よって自動車やバスが波打ち際を走行できるのだ。従って夏季の観光シーズンは県内外から多くのドライバーが訪れ、西側に見える日本海を眺めながらここを走破し、能登の自然を肌で感じるのである。

この灼熱の浜で警備棒を振るひとりの男があった。平日にもかかわらず定期的にやってくる観光バスや一般の自動車を、一切滞らせること無くそれを誘導する彼の肌は、強烈に照りつける日光によって焼け焦げていた。

彼の前に1台のワンボックスカーが止まった。男はおそらく道のことを聞かれるのだろうと、この付近の観光地が網羅された地図を取り出してその運転席の近くに向かった。
「どうされましたー?」
この声を受けてスモークが施されている後部座席の窓が開かれると、男は思わず手にしていた警備棒を落としてしまった。
「え…。」
そこにはリネンシャツにジーパン姿の松永の姿があった。
「久しぶりだな。三好元警備課長。」
三好は車の奥にサッと目をやった。助手席には体つきがしっかりとした男が座っている。
「俺は暑いのは苦手だ。まぁ、乗ってくれ。」
松永はそう言うと後部座席のドアを開いた。
三好は何も言えずに松永の言うとおりに車に乗り込んだ。
「とりあえず冷たいものでも飲め。」
キンキンに冷えた麦茶のペットボトルを渡された三好は、それを一気に飲んだ。
「お前のことは冨樫から聞いている。」
この発言に三好は何かを悟ったのか、動揺を隠しきれなかった彼の様子は落ち着きを取り戻した。
「…そうですか。」
「いろいろ大変だったな。」
「…いえ…。」
「朝倉はあれからお前のところに何か連絡をよこしてくるのか。」
三好は首を振った。
「ちっ。薄情なやつだ。」
「管理官だったんですね。」
「あん?」
「冨樫から聞いています。俺の訴えを聞いてくれる察庁のお偉方がおるって。ほやから最後まで自分をしっかり持って頑張れって。きっとその人が俺の訴えを聞き入れてくれるって。」
「…。」
松永は口を噤んだ。ノンキャリから県警警備部警備課長まで昇りつめることができるのはほんの一握り。その中のひとりである三好は正にノンキャリの中のエリート。そんな彼が今では非正規雇用の単純労働を強いられている。警視であった曾ての面影は無い。歯を食いしばり頬に涙を伝わせる彼の様子は車内に沈黙を呼んだ。
「管理官直々のお越しです。覚悟はできています。」
「そうか。」
そう言って松永は一枚の名刺を取り出し、それを三好に渡した。
「これは?」
「あそこの警備責任者だ。」
松永は海岸線の向こう側にかろうじて見える施設を指さした。
「原発…。」
「ああ。お前はあそこで今から不逞の輩の出入りを取り締まれ。」
「…動きがあるんですね。」
「まぁお前が若くて現役バリバリのあの時代とは少し様相は変わっているがな。今回も根っこはツヴァイスタンだ。」
「仁熊会は。」
「今のところ直接的な関係は無い。」
「直接的?」
「そのあたりはこっちに任せろ。とにかくお前は今からこいつと接触して原発の中枢に潜り込め。外部と連携して、原発の安全運転を脅かす内部協力者の動きを封じ込めろ。」
「かしこまりました。冨樫から受けたレクを総動員して当たります。」
日頃警備棒を振るだけの仕事に従事していた三好の顔つきは県警時代の彼のものに戻っていた。
「朝倉の奴、今度は冨樫を排除するよう動き出した。」
「冨樫を?」
「お前とこそこそ会っているのがどうも気に食わないらしい。」
三好が手にする名刺は震えていた。
「お前の習得の度合いは冨樫から報告が入っている。あいつのお墨付きだからお前なら出来るだろう。」
「お任せください。」
この三好の言葉に松永は口元を緩めた。
「そろそろ反撃かけるからな。三好。やる時は一気にやる。」
「その言い回し…まるで一色部長のようですな。」
口元を緩めた松永はしばし沈黙した。
「少しは俺もあいつに近づけたかな。」
「ええ。」