第五十四話

ダウンロード
第五十四話
五の線2 第五十四話
55.m4a.mp4
MP4動画/オーディオファイル 18.1 MB
「目障り?」
コーヒーが紙コップに注がれ出来上がりの合図が発せられると、下間芳夫はそれを取り出した。あたりには学生たちが屯している。石川大学ではもうすぐ夏季休暇前の前期定期試験が行われるため、彼らはそれの対策に必死である。休憩ロビーにはパソコンを開いてそれと睨めっこする者や、テキストを読みながらノートをとる者、試験なんぞお構いなしに談笑する者などさまざまである。
携帯電話を耳に当てたまま彼らの様子を眺めて、下間芳夫はコーヒー片手にエレベーターに乗り込んだ。
「岡田とか言う刑事のことですか。」
「いや、鍋島だ。」
エレベーター内に自分一人しかいない下間は、天井を見て思いっきりため息をついた。
「鍋島が今度はなにを?」
「赤松家の墓にキリコなんか置いてきやがった。」
「…まさかコンドウの名前でですか。」
「そうだ。」
下間は自身の研究室の扉を開いた。中に入った彼は即座に鍵を掛けた。
「どうもあいつは俺らを舐めている。」
「舐めると言うと?」
「俺らの取り組みをゲーム呼ばわりだ。」
「日本人の赤化活動がですか。」
「ああ。俺らは俺らのゲームをクリアすることに専念しなって具合だよ。」
「と、言うことは小池田の件はどうなるんですか。」
「それは今晩決行される。」
「じゃあなんで鍋島はそんな悪態をわざわざ今川さんにつくんですか。」
「知らないよ。こっちがせっかく親切心で小池田の情報を提供してやろうってのに、余計な口出しすんなとかだ。」
下間は頭を抱えた。
「鍋島自身もゲームをやってるらしい。」
「鍋島自身もですか?」
「おそらく北高関係なんだろう。そうでもないと今更赤松家と接触なんかしないだろう。」
「まあそうですな。」
研究室窓に掛けられたブラインドの間を指で開き、その隙間から眼下の雨上がりの森を見つめた。
「この間、お前に話したろう。」
「…ええ。」
「小池田の件が片付いたら、もういいんじゃないか。」
下間は黙った。
「あいつにも一応の恩義はあるようだが、ああいう個人プレーが目立つ人間はいずれ足枷になる。」
「しかし、あいつの才能は常人を凌駕するものです。こちらが直接的に手を下すことは難しいかと。」
「そういう時のために悠里がいるんじゃないか。」
「…悠里ですか。」
またも下間は無言になった。
「まあいいだろう。この件はまた今度だ。いましばらくはあいつのわがままに付き合うか。」
「はい…。」
ところでと言って今川は続けた。
「SNS内のコミュに関する発言を常時監視している奴がいる。」
「公安ですか。」
「おそらく。」
「いつからですか。」
「ここ数日の間からだ。」
「タイミングがいいですな。」
「幹部連中に決して直接的な発言はしないように徹底しておいてくれ。」
「はい。」
「いつだ。」
「明日、指示します。」
「決行は。」
「テストはその日のうちに。決行日は金曜。麗がコミュに復帰してから。」
「そうか。」
机の上に目を落として下間は口を開いた。
「今川さん。」
「なんだ。」
「これで終わりですよね。」
今川は返事をしない。
「我々は日本の左翼分子を焚き付けて、一度行動を起こさせるだけ。その後はツヴァイスタン直轄部隊とウ・ダバが彼らと連携して日本政府の弱体化を図る。我々はここで一旦任務終了でいいんですよね。」
「ああ。それでいいだろう。」
「志乃はどうなんですか。」
「とりあえずオペは成功したらしいが、その後の情報はまだこちらにも入ってきていない。」
「…そうですか。」
「闘病生活を送っている妻を遠い異国の地に置き去りにし、子どもたちと共にここ日本で工作活動を行う君の心情は察している。俺としては最善を尽くさせてもらうよ。」
「ありがとうございます。」
「しかしだ。」
「はい。」
「今しばらくはその感情はどこかにしまっておけ。」
下間は目を落としていた写真を机の引き出しにそっとしまった。
「俺もお前も下手は打てない。この世界にどっぷり浸かった人間は進むも引くも地獄が待っているからな。」
「確かに。」
「引くというのが死を意味するならばせめて進もう。可能性がある方を俺は選択する。」
「私もです。」
「まるでブラック企業だよ。」
そう言って今川は電話を切った。
「こっちの世界もこういうことなんだよ。朝倉。」
下間はこう呟くと老眼鏡を掛け、石川電力の原子力発電所の敷地図を広げた。
携帯電話を広げた岡田は、そこに警察からの着信がないことを確認しため息をついた。
「いやーやっぱりデキる男は違うね。なんていうかモノが違う。若林のだらまにも爪の垢煎じて飲ませてやりたいですよ。」
「ここまで来たらもう嫌味にしか聞こえなんですけど。」
「頼めっか。岡田。」
「…はい。」
腐りきった警察なんか辞めてやると、若林に面と向かって啖呵を切ってそこを飛び出してからというもの、岡田には北署から何の連絡も届いていなかった。岡田の依願退職を受理したとも、戻って来いとの声もない。今の岡田の身分は正に宙ぶらりんであった。
「冷てぇなぁ。」
携帯電話を胸ポケットにしまった。ふと車のメーターに目をやると外気温は32度を表示していた。木陰に車を停車し、運転席のシートを倒してダッシュボードに足を置き、仕事をサボる営業マンのように振る舞う岡田は、そこから辛うじて目視できる山県邸の様子を時折観察しながら、目を瞑りただ時が過ぎるのを待っていた。
運転席の窓を叩く音が聞こえた。
「あ…。」
目を開いた岡田はとっさに身を起こした。
「古田さんじゃないですか。」
そこにはタオルを首から下げた古田の姿があった。
3年前の熨子山事件以来の再会である。岡田は助手席のロックを解除して古田を車に招き入れた。
「いやいやいやいや、久しぶりやな。岡田。」
「いやー久しぶりですね古田さん。元気そうですね。」
「まあな。それにしてもあっちぃな今日は。」
「昼ごろザーって降ったせいで湿気が半端ないですわ。」
「おいや。」
古田はタオルで顔を拭いた。
「それにしても奇遇ですね。古田さんはいま、何か仕事しとるんですか?」
「あ?わし?」
「ええ。」
古田はカメラバッグからカメラを取り出してそれを岡田に見せた。
「カメラですか?」
「おう。っちゅうても仕事じゃねぇけどな。」
「なんすか。趣味ですか。」
「おう。こいつでいろんなもん撮って一日が過ぎるのをただひたすら待っとるだけの爺さんや。」
「趣味か…いいっすね。」
「だら、これだけやっとれっていうのも結構酷なもんやぞ。仕事辞めてからっちゅうもん人と関わることが極端に少なくなったわ。このままやとボケてしまうわ。」
「何いってんですか。古田さんはボケませんよ。」
「何でそんなこといえらん。」
「メモ魔でしょ。古田さん。いちいち何でもかんでも記録をとるような人は注意も払うし頭もその分使うから、そんな事になりませんよ。それがメモとるのも億劫やってなったら、ちょっと心配せんといかんようになるかもしれませんけど。」
岡田は古田カメラマンジャケットのポケットにメモ帳が刺さっているのを見逃すことなくこう言った。
「あーそうか。メモとらんくなったら要注意か。」
「ええ。」
2人は笑った。
「お前、こんなところでなにやっとらんや。」
「え?」
「お前いま北署の1課の課長やろ。なんや非番か今日は。」
「あ…まぁそんなところですよ。」
「折角の休みに、仕事サボる営業みたいな時間の使い方してなんしとらいや。」
古田はカメラのボタンを操作してビューワを覗きながら岡田に問いかけている。
「まぁ…俺にもいろいろあるんですよ。」
「はっはーん。嫁さんに愛想つかされたか。」
「いや…そんなこともないんですけど。」
「じゃあなんねんて、こんなクソ暑い日中に車ん中でぐだぐだしとってからに。」
岡田は頭を掻いた。
「ほい。」
手渡されたカメラのビューワを見た岡田は動きを止めた。
「山県久美子。」
「なんで?」
「趣味や趣味。」
「なんで古田さんが久美子の写真持っとるんですか。」
「言ったがいや。趣味やって。」
「ちょ意味わからんがですけど。」
「あぁ勘違いすんなや。ストーカーじゃねぇぞ。」
「いや、立派なストーカーですよ。」
カメラの送るボタンを押し込むと次から次へと山県久美子の写真が表示される様を見て、岡田は背筋に冷たいものが流れた。
「久美子が藤堂に狙われとる。」
「え?」
「お前はその久美子に危険が及ばんようそれを監視。ってところや。」
「なんでそれを…。」
「だから趣味やって。警察ごっこや、ごっこ。」
岡田は言葉を失った。
「しっかし最近のキャリアってのも困りもんやな。岡田みたいな優秀な人材を放逐してどうすれんて。」
「え…そのことも。」
「まぁそのほうがお前の動きは自由になっから、楽っちゅうたら楽ねんけどな。」
一体古田は何をどこまでに知っているというのか。古田との再会は偶然を装ったもので、彼は何かを意図して今ここにいるのか。岡田は混乱した。
「岡田。」
「はい。」
「勤務中の久美子は大丈夫や。今のところお前があいつを監視せんでもいい状況になっとる。」
「え?」
「ほやけど休みの時の久美子の動きまでは追えん。そこはお前がしっかり見守ってやれ。」
「ちょっとすいません。古田さん。俺は古田さんの言っとることがイマイチわかりません。」
「わからんでもいい。むしろわからん方がいいんやって。もしもいざ何かってことがあったら、あん時お前が佐竹に喰らわせたタックルでも藤堂に喰らわせてやってくれ。」
意味がわからない。片倉といい古田といい熨子山事件時に共に行動した元刑事2人が、立て続けに岡田に関わりを持ってきた。警察を辞めた身である彼ら二人共が、不思議なことに岡田の置かれた状況をつぶさに掴んでいる。片倉と古田の背景に一体何があるというのか。岡田はとりあえず頷くしかなかった。
「そろそろ動きがあるやろう。そん時はお前の現場の判断が全てやぞ。」
「動きですか?」
「ああ。ここ一週間が勝負やろうな。」
「一週間。」
「お前はお前の良心に従って、ただ前だけを見て進むんやぞ。」