第五十話

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第五十話
五の線2 第五十話
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金沢市中心部のとあるマンション。

くたびれたスーツ姿の片倉はコンビニ袋を片手にそのエレベーターの中にあった。狭いこの空間の中に一枚の貼り紙がされている。どうやら最近、ゴミの分別がルーズな人間がいるようだ。自動車のショックアブソーバーが不法に投棄されていたので、管理組合ではこういった人間を特定し、断固とした措置をとるといった物々しい内容のものだった。
5階でエレベーターは止まった。扉が開かれ通路に出ると、そこから見える金沢市街には大粒の雨が降り注いでいた。
部屋の玄関ドアを開き、その中に入った彼は手にしていたコンビニ袋をキッチンテーブルの上に無造作に置き、隣の部屋に通じる引き戸を開けた。
「飯や。」
畳敷きの6畳間にはその場に似つかわしくない無線機が数多く配され、交信音が飛び交っている。三方の壁には数多くの写真が貼られ、覚え書きのようなものがびっしりと書かれていた。
ヘッドフォンを装着していた神谷はそれを外して肩にかけ、片倉の方を見た。
「ありがとうございます。」
「マサさんは?」
「隣の部屋にこもっています。」
高度経済成長期の典型的な間取りである。神谷がいる部屋は6畳。その隣には4.5畳の部屋があり、板の間はキッチンのみである。片倉は襖を開いた。
「マサさん。あんたもちょっと休んだらどうや。」
畳敷きの部屋に似つかわしくない、大きな業務机を置き、液晶ディスプレイを4面並べて、片耳にイヤホンを装着し、パソコンチェアーに深く身を委ねる冨樫の姿があった。ディスプレイ見る彼の顔つきは恐ろしく厳しいものであったが、この片倉の呼びかけに普段の柔和な顔つき戻ってキッチンへとやって来た。
「あれ?外は雨ですか。」
一緒に食事をする片倉の肩に雨の跡が付いているのを見て、冨樫が言った。
「ああ。なんかすっげぇ降って来てんて。」
「あれですか。ゲリラ豪雨。」
「おいや。なんねんていやこの雨。なんとかしてくれま。」
「織田信長が今川義元を討ち取った桶狭間も、確か豪雨だったと思いますよ。」
カップラーメンを啜っていた片倉はニヤリと笑った。
「今川ね…。」
「ワシらもあやかりたいもんです。」
「ほうやな。」
「どうでした?岩崎は。」
「あぁ、どうやら絵ぇ描くのがお好きなようや。」
「絵?」
「俺とかトシさんの存在をあいつは把握しとる。ばっちりお得意の絵でノートに書き留めとるらしい。」
「なるほど。」
弁当をくちゃくちゃ言わせながら食べる神谷を片倉は怪訝な顔で見た。
「課長。SNSがおもろい流れになっとりますよ。」
冨樫が言った。
「おもろい?」
「明日、コミュが開かれるそうです。」
「明日?あれは基本的に金曜の集まりじゃなかったんけ?」
「どうやら主要メンバーが役員会って位置付けで集まるようです。」
「役員会? 岩崎は?」
「そこですよ。おもろいのは。」
食事をさっさと平らげた冨樫がタブレット端末を片倉に見せた。
「タイムラインの発言をコミュに関するキーワードで抽出してあります。」
食事の手を止めて片倉はそれを見た。
「岩崎が裏切った?」
「ええ。なんかコミュの中で岩崎との交信が途絶えとるみたいで、内輪で疑心暗鬼になっとるようです。」
「疑心暗鬼?」
「体調が悪いって事で岩崎は2日だけコミュから離れるっちゅう事になっとるのは、コミュの中でも連絡がまわっとるんですが、その岩崎が公園でぼーっとしとるのを見た奴がおるみたいなんです。そいつが体調が悪いとかは嘘や、現に見知らぬ爺さんと楽しそうに話しとったとか言うもんですから、コミュの中じゃちょっと騒ぎになっとるんです。」
「仁川はどう言っとる?」
「だんまりですわ。」
「好きな事ぐらいさせてあげればいいのに。」
神谷が口を挟んだ。
片倉は神谷を無視するように冨樫に尋ねた。
「マサさん。そもそもその役員会ってなんねん。今迄そんな緊急会合みたいなもんなかったがいや。」
「そうですね。いよいよ動こうっちゅうんかもしれません。」
「臭いな。」
「はい。」
「しかし岩崎抜きの役員会っちゅうのも何なんやろうな。」
「単純に兄貴の仁川が妹のことを気遣ったんじゃないですか。」
相変わらず神谷はマイペースに食事をとりながら口を開いた。
「なんねん。気遣いって。」
「仁川は岩崎の心境に一定の理解を示しています。ツヴァイスタン語ですけど話し口調聞けば同情が伝わってきますよ。現に仁川自身もこぼしていましたから。」
「で。」
「いくらツヴァイスタンで工作員として育てられたと言っても人格はひとつ。岩崎も仁川も下間芳生と下間志乃との間に生まれた子供です。それが密かに日本に入国して赤の他人に成りすまして生活をするだけでも相当のストレスですよ。」
「で。」
「仁川征爾こと下間悠里は日本に来てからというもの妹の岩崎香織こと下間麗とはあくまでも工作員としての立場に徹して彼女の監督を務めている。しかし二人の根底には家族としての絆があります。自分が理想とする革命を成し遂げるために日本において工作活動を行う一方で、その理想とする思想を分かち合う唯一無二の家族という存在を消し去る。そういった自分の立場の複雑さを嘆くような印象を、仁川の言葉から俺は受け取りました。」
「で。」
「何ですか課長。」
「で。続きは?」
片倉はぶっきら棒に神谷に言った。
「悠里もひょっとしたら悔いているのかもしれませんよ。妹を闘争のシンボルに仕立て上げることを。」
「で、それだけ?」
「え…はい。」
「あのね。神谷くん。その食い方なんとかならんが?」
「え?」
「そのくちゃ食い。お父さんとお母さんに言われんかった?はしたないって。」
「そんな事言われた事ないですよ。え?なんか変ですか?」
片倉は肩をすくめた。
「そういう事ねんて。神谷。」
「え?」
「お前、その自分の飯の食い方、何も思っとらんげんろ。」
「はい。」
「仁川も岩崎もそういう事や。なぁマサさん。」
冨樫は頷いた。
「え?どういう事ですか。」
片倉は呆れた顔をした。
「人間っちゅうもんは育った環境が全て。現におめぇは知らず知らずに俺らを不快にすることを目の前で披露しとる。」
「不快…ですか?」
「不快も不快やわいや。成長の過程で意見の違う人間との交際を遮断し、決まった人間としか付き合いがない純粋培養みたいな人間っちゅうもんは、空気が読めん。そう言うもんや。」
「神谷さん。片倉課長の言うとおりです。」
片倉に続けて冨樫が言った。
「つまりお前の言っとることはファンタジーやって事や。」
神谷は憮然とした。
「いいか。俺らがやる事は犯罪を水際で食い止める事。捜査対象に一切の私情も挟むんじゃねぇ。」
「でも、あいつらも下間芳生っていう親の教育のため作り出された工作員でしょ。一種の被害者じゃないんですか。」
「じゃあ言わせてもらう。お前の言うことをそのまま額面通りに受け取って、俺らに何ができる。」
神谷は黙った。
「下間一族に掛け合って、無茶なことは止めて下さいって説得しに行くんか?」
「…はい。」
「だら‼︎」
この片倉の一喝に神谷は体を硬直させた。
「万引きする前の人間に万引き止めてって店ん中うろうろしとる人間手当たり次第とっ捕まえて言うんか?あ?」
「あの…。」
「そいつが本当に万引きするかもわからんげんに?」
神谷は何も言えなくなった。
片倉はため息をついた。
「神谷さん。課長もワシも歯痒いんですよ。」
仏のような顔の冨樫が言った。
「犯罪の臭いがするっちゅうだけで、現行の法律ではその対象をしょっぴく事はできません。下間が間違いなく暴動を起こそうとしとるっちゅう証拠がない限りね。」
「ネット上でもリアル世界でも人集めて何かの議論する事は別に違法じゃない。仮にそこに本当に国家転覆を意図するものがあっても、そいつらが本当にそれを実行に移そうとしとるっちゅう証拠を俺らが抑えれんがやったらただの集会や。」
「ほやから何かの尻尾を出さんかを監視しとるんですよ。そんな時に相手型への同情っちゅうのは、自分の監視レンズを目を曇らせるだけのことにしかならん。」
「後な、お前にも言ったろ。」
タバコに火をつける片倉を神谷は黙って見た。
「この事案は大事にするのはご法度や。下間とかだけの話じゃねぇ。俺らはこの先にあるもっと深い闇も暴かんといかん。」
神谷はしょんぼりとした様子である。
「なぁマサさん。」
いつも笑っているかのような冨樫の細い目に光るものがあった。
「いいか。神谷。」
「…申し訳ございませんでした。」
「お前は語学が達者や。ほんで頭も切れる。その能力を極限まで使ってくれ。その為にも一時の情に流されるな。」
「はい。」
「まぁでもお前のその感傷的な部分も、視点を変えれば利用できる。」
「え?」
「岩崎には別働隊が働きかけることになっとる。」
「古田さんですか?」
タバコの煙を吐き出して、窓の外を遠い目で見つめた片倉は呟いた。
「本当に公安っちゅうのは無慈悲な仕事やわ…。」
冨樫は頭を掻いてペットボトルの茶を一飲みした。