第四十五話

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第四十五話
五の線2 第四十五話
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山県と別れた佐竹は自宅に帰ってきた。彼の住まいは3年前と変わらない。金沢市北部の1LDKの部屋が4室ある軽量鉄骨のアパートだ。自室の扉を開き足元に目を落とすと、そこには一足のスニーカーが揃えて置かれていた。

「ただいま。」
奥からTシャツにジャージ姿の女性が現れた。山内美紀である。
「おかえり。」
「何か良い匂いする。」
「多分、冷しゃぶのタレの匂いじゃないかな。」
「冷しゃぶ?マジで?」
彼は足取り軽くキッチンに通じる扉を開いた。キッチンテーブルの上にガラス製の大皿があった。レタスや玉ねぎスライス、水で戻したワカメを敷き詰め、その上に片栗粉で軽くとろみをつけ、湯煎された豚肉が盛ってある。キッチンコンロの方を見ると小さな鍋があり、ガラス製の蓋の上から、その中身がなめこと豆腐の味噌汁である事が分かった。佐竹は小躍りしながらベッドルームに姿を消し、Tシャツ短パンの部屋着に着替えた。
「いただきます。」
女性が料理を作って自分の帰りを待っていてくれている。しかも一目惚れした女性である。3年前の熨子山事件当時には考えられなかった情景だった。
佐竹は真っ先にレタスとワカメを自家製梅肉ドレッシングに浸して口に入れた。
「はぁー野菜食べたかったんだって。」
「昨日まで何食べてたの。」
「牛丼とかラーメンとか。」
「炭水化物ばっかりじゃないの。」
「だって手っ取り早いもん。」
何気ない男女の会話。彼女とよもやこんな事になろうとは。
山内は実家暮らしであるが、店が休みである時は佐竹のアパートで過ごしていた。
「美紀。」
「何?」
彼女が作ってくれた料理をひと通り平らげた佐竹は箸を置いて言った。
「あのさ、今更なんだけど。」
山内はマイペースに食事をしている。
「熨子山事件の時、村上の奴、本当に自分が鍋島を手にかけたって言ってた?」
彼女の箸が止まった。
あの事件で山内は一時的であるにせよ、村上の人質となった。当時の彼女が味わった恐怖を考えれば、この食事中というタイミングで切り出すべき話題ではない。
「どうしたの?」
予想通り山内の表情は複雑なものになった。せっかくの食事を妨害されたという不満、なぜこのタイミングで過去の忌まわしい体験をぶり返すのか。そういった感じがひしひしと受け止められた。いつもの佐竹なら、この空気を読まない発言を撤回し、険悪になったこの場をなんとか取り繕うとする。しかし今日の彼は続けてこう言った。
「ねえ。大事な事なんだ。」
「何で今なの。」
山内は精神を病んだ佐竹を知っている。よって彼につっけんどうな対応を取る事は、彼の精神衛生上よくない事である事も理解している。
不満と遠慮。彼女は抑圧を覚えた。
「なんか...嫌な予感がするんだよ。」
「嫌な予感?」
佐竹の額を見ると、そこには汗が滲んでいた。
熨子山事件の事を思い起こすと、彼は汗を流し情緒不安定になる傾向がある。事件後彼の側でその様子を目の当たりにしてきた山内にも嫌な予感がした。
「多分、ヤスくん疲れてるのよ。ほら、事件とか小松部長さんの件とか重なって...。」
「違うんだ美紀。俺は病んでない。」
山内は改めて佐竹の顔を見た。エアコンが効いた部屋であるにもかかわらず、彼の額には相応の汗が滲み出ている。だがそれに反して彼の顔つきは凛としたものであった。
「確かに村上さん、自分がやったって言ってたよ。」
「それだけ?」
「え?他になにがあるの。」
「あの、ほら...例えばもっと具体的な描写みたいなのは無かった?」
「具体的な?」
「例えば一色から奪った銃であいつを撃ったとか。」
「え?そんな事、あの人言ってなかったよ。」
「そうか...。」
佐竹は腕を組んだ。
その時である。食卓の隅に置かれていた携帯電話が震えた。佐竹は部屋にかけられている時計に目をやった。時刻は9時半だった。
ー部長かな。
何度も震える携帯電話を見ると発信者の番号が表示されていた。アドレス帳未登録のものからである。
ー誰だろう。
「どうしたの。出ないの。」
山内の言葉に促されるように、彼はそれを手にとった。
「あ…。」
電話は切れてしまった。
「間違い電話かな。」
ーえ…?何か…これ…いつか経験したような…。
「ヤス君に本当に用事がある人だったら、また掛けてくるよね。」
ー何だっけ…。
「それにしても間が悪いよね。せっかく出ようとしたのに、携帯手にした瞬間に切れるんだから。」
「え?美紀。今なんて言った。」
きょとんとした顔つきで山内は佐竹を見た。
「ねえ。今なんて言った。」
「え?間が悪いって。」
「…それだ!!」
佐竹は素早く立ち上がって寝室に向かい、クローゼットの中から小さな段ボール箱を取り出した。その中には彼が使用した歴代の携帯電話が充電器とともに保管してあった。
「今でも動くかな。」
こう呟いて彼はその中の1台に充電器を差し込み電源を入れた。
「どうしたの。ヤスくん。」
突然の行動に不安を感じた山内が寝室を覗きこんだ。佐竹は胡座をかいて、フローリングの床に置かれた携帯電話をじっと見つめていた。彼女の呼びかけに応える様子はない。何が原因かわからないが佐竹の心の状態は穏やかでない。こういう時はそっとしておくのが一番だ。三年の間、側で佐竹を見てきた山内なりの判断が働いた。キッチンに戻って食事を再開しようと寝室を背にした時、佐竹のつぶやき声が聞こえた。
「やっぱりだ…。」
12月20日 日曜日 0時58分。いまかかってきた電話番号と全く同じ番号が、かつて使用していた携帯電話に表示されていた。

「ちょっとどうなってるんですか。」
「あ?」
警備会社の制服姿のまま、商業施設の傍らで電話をする岡田があった。
「いきなり俺、明日非番になりましたよ。」
「え?まさかのクビ?お前どんだけなんだよ。」
「冗談はやめてくださいよ。明日はシフトに入らなくていいって警備会社の人事担当てっいう人に言われました。明後日また出てくれって。」
「あーじゃあ久美子も休みなんやろう。」
「え?」
「そこの警備会社の人事担当者には、できるだけお前のシフトと久美子の出勤日がかぶるようにしてくれって言っといたから、それ汲んでくれたんやろういや。」
「なんで警備会社が久美子の勤務日まで把握してるんですか。」
「んなもんちょっと工夫すりゃ情報引き出せるやろ。」
「工夫って…。」
「一応その会社の人事も元警察やしな。」
「…そうなんですか。」
商業施設は閉館となり、テナントのショップ店員たちが続々と出てきた。その中には山県久美子の姿もあった。
「久美子です。施設の通用口で誰かを待っているみたいです。」
「お迎えか。」
間もなく黒のセダンが彼女の前に付けた。久美子は助手席の扉を開きそれに乗り込んだ。とっさに岡田はその車運転席に座る人物を確認した。
「山県有恒。」
「親父か。」
山県の車は静かにその場から走り去って行った。
「ひとまず今日のところはこれで良しだな。」
「どうするんです?」
「あ?」
「明日俺非番ですよ。久美子の警護は誰がやるんです?」
「え?お前やってくれるが?」
「え?違いますよ。俺の代わりにだれがやってくれるんですかって聞いているんです。」
「いやいやいや。流石岡田さんですね。」
「何言っとるんですか、片倉さん。」
「非番にもかかわらず、休日の久美子を自主的に警護ですか。やっぱりあなたはヤる人だと思っとった。」
「あのですね。俺にも一応家庭ってもんがあって。」
「あーいいんかなぁ。警察崩れのおっさんが直ぐに定職に就けるほど世の中甘くねぇんやけどなぁ。」
「う…。」
岡田は何も言えなくなった。
「いやーやっぱりデキる男は違うね。なんていうかモノが違う。若林のだらまにも爪の垢煎じて飲ませてやりたいですよ。」
「ここまで来たらもう嫌味にしか聞こえなんですけど。」
「頼めっか。岡田。」
「…はい。」