第四十三話

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第四十三話
五の線2 第四十三話
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ガラス製のお銚子を軽く上げ、それを一気に飲んだ。
「ふーっ。」
「かーっ。」
「こっちの酒は覿面に効くな。」
金沢市郊外のとある住宅街に、外観はその辺りの民家と同じであるが、手書きで「寿司」と書かれた小さな看板が玄関にかけられている店があった。この店には名前はなかった。この二階奥座敷。片倉と朝倉は相対するように座っていた。
座敷のテーブルには既にひと通りの料理が並んでいる。おそらく給仕などで2人の会話を邪魔させないためであろう。
「どうするんだ。」
「マサさんですか。」
片倉は朝倉に酌をした。
「部長のおっしゃる通り、泳がせておく事にします。」
「…そうか。」
「現状において決定的なもんがないもんで。」
「まぁ、気を付けろ。」
「今川に関して何か面白い話ありましたか。」
朝倉は焼かれたのどぐろに手をつけた。
「松永に渡した資料から特に進展はない。所轄があいつを任意で調べた程度だ。」
「岡田ですね。」
「ああ。」
「岡田は長尾がHAJABと書かれていたメモを持っていた事から、長尾と今川の関連性を疑っています。」
「そうらしいな。」
「HAJABからドットメディカル。そしてドットメディカルから仁熊会。」
「その辺りはお前ら公安の管轄だ。今の段階で現場が他のシマにシャリシャリ出てくると捜査に支障を来すだろう。現場の暴走を食い止めるのは上官の大事な任務だ。」
「その若林ですが。」
「なんだ。」
「あいつの現場の管理は随分なもんですよ。長尾の件といい小松の件といい、木倉町でしょっぴいた奴の件といい、何でもかんでも自殺処理ですわ。」
「それも聞いている。確かに乱暴な処理だ。」
朝倉は箸を器用に使い、魚の身と骨を取り分けた。
「あいつの判断に現場から猛烈な反感が上がっとるようです。」
「それはお前ら警察の問題だろう。キャリアの人事は察庁に言え。」
「ええ。ですがあまりにも短絡的な処理が連発しとるんで…。」
「なんだ。何が言いたい。俺はもうお前の上司じゃないんだぞ。」
「何かとウチらに協力して公安調査庁のネタを流してくれる、朝倉部長しか俺の素直な気持ちをぶつけられんがですよ。」
「松永はどうだ。」
片倉は手を横に振った。
「ふん...。良いだろう。聞こうか。」
「若林の奴、ひょっとして今川らのイヌじゃないですか。」
魚の身を口に運んでいた朝倉の動きが止まった。
「長尾と小松の件はわからんでもないんです。あいつらはエスでしたから。」
朝倉はグイッと一飲みし、片倉を見た。
「エスの死が事件になってしまえばこれはこれでいろいろ面倒くさい。そこを強引ではあるが自殺で処理すんのは解る。しかし、木倉町の奴は違う。」
「…コンドウサトミをその目で見たって奴か。」
「はい。奴はエスでもなんでもありません。たまたま木倉町で人を刺したってだけの人間です。たまたまこいつがコンドウサトミをその目で見たってだけです。俺らにすれば偶然手に入った鍋島の情報源。ほやからブタ箱に入れてしっかり警備までさせとった。それなんに吉川線がある首吊り。そして自殺処理。」
朝倉は刺身に手をつけ出した。
「俺らはコンドウサトミこと鍋島惇の行方を追っとります。折角その重要な手がかりを手に入れたんに若林はそれを消し去った。」
「さっきも言ったが、それは察庁の人事の問題だ。俺らの管轄じゃない。」
「部長。」
片倉は改まって座った。
「公庁は若林の情報を持っとらんがですか。」
朝倉は片倉と目を合わせず、のどぐろの刺身の上に山葵をひとつまみ分乗せた。
「知らん。」
「例えば若林の経歴の中に、少しなりとも極左的思想があるとか。」
「何度言わせる片倉。そういった人事のことは官房に言え。聞く相手が間違っている。」
話は聞くが、質問の内容が自分の管轄外の一点張りである。片倉はこれ以上若林の話をするのを止めた。
「…はは。そうですね…。いらんご心配をかけました。申し訳ございません。」
片倉は頭を掻いた。
「何だ。お前、相変わらず松永とは仲が悪いのか。」
「はい?」
朝倉は空になっている片倉のお銚子に酌をした。彼はぺこりと頭を下げそれに少しだけ口をつけた。
「お前の管理は松永の役目。それなのにあいつをすっ飛ばして俺に相談事か?」
片倉は苦い顔をした。
「あれでも一応、次代の警察を背負っていくと言われている男だ。確かに感情の起伏や言動には問題があるが、熨子山事件の時を見ればセンスがある人間だよ。」
「まあ…確かに…。」
「しかしお前とあいつじゃ水と油みたいなもんだってのは当初から分かっていた。」
「ご明察です。」
「どうだ。そろそろ考えてくれないか。」
酒を飲む片倉の動きが止まった。
「ウチに来い。」
片倉の携帯電話が震えた。メールか何かなのだろうか、その振動は間も無く止まった。
「誰だ。」
「あ、あぁ…きっとカミさんですよ。」
「家庭内でのお前の身分は今、どうなっている。」
「おっさんです。」
「おっさん?」
「洗濯物が臭い零細企業に勤務する枯れたおっさんですよ。娘には呆れられとります。」
朝倉は苦笑いした。
「俺もそういう時期があった。だがそのうちその娘も外に出て、悪態をつかれることがなくなって寂しくなるぞ。」
「ははっ。そんなもんですかね。」
「嫁さんだけは大事にしろよ。最後は本当に嫁さんに頼るしか無いからな。」
「…カミさんですか…。」
片倉は神妙な顔をした。
「どうした?」
「あ、いえ…。まぁなかなか難しい局面なんですよ。ウチは。」
朝倉はこれ以上は立ち入らないでおこうと言って握り寿司を口に運んだ。
「察しの良い部長ならお分かりでしょう。俺は兎に角、このヤマを解決して早いことカミさん孝行せんと、俺もトシさんみたいになってしまいます。なので、部長からのお誘いは申し訳ないですがお断りさせていただきます。」
「そうか…。残念だ。」
「申し訳ございません。」
「いや、気にするな。」
朝倉は片倉に酌をした。
「古田か…。」
「トシさんから何かネタ上がってますか。」
「まあな。」
「でも今川について新しいネタ無いんでしょう。」
「ああそうだ。お前もよく知っているように、トシさんはあれを調べてくれと言ってもそれだけ調べない。その周辺の事を洗いざらい調べる。だからちょっとネタが上がってくるのが遅いんだよ。」
「確かにそうです。ですけどやっぱりトシさん、引退してちょっと勘鈍りましたかね。」
「何だ?」
「あんまりこっちの方にネタ上がってこんがですよ。」
「ははは。それはそうだろう。こっちが先に唾つけたんだ。」
「こっちがトシさんに協力依頼かける前からですか。部長の方は。」
「まあそうだ。」
「ちっ。」
片倉は舌を打った。
「よりによって公庁とバッティングですか。」
「全くだ。松永はどこか詰めが甘いところがある。」
「ウチの理事官大丈夫ですかね。」
「さあな。」
「まぁトシさんは仕事が趣味みたいな人だ。時々こっちが意図していないネタまで持ってくることがある。」
酒を傾ける朝倉の手が止まった。
「あの人のことや。きっと3年前の熨子山事件のこともひっくるめて自分なりに捜査しとるでしょう。ほんで時間がかかっとるって思うようにしとりますよ。」
「…そうだな。」
「きっとトシさんなら鍋島の事も調べとるでしょう。」
「鍋島か。」
「あの事件で殺された筈の男が、何故未だにコンドウサトミとして跋扈しているか。その辺りもね。」
「指紋の件か。」
「ええ。七尾で殺された男は指紋照合の結果、鍋島惇と断定。しかしその指紋のその物も実は鑑識によって偽造されていた。全く…。誰を信じれば良いかわからんですよ。」
「誰を信じるか…か。」
「まぁスッポンのトシならきっとそこら辺も解いてくれるでしょう。」
「ははは。つい今さっき誰を信じれば良いか分からんと言っていたのに返す刀でトシさんを信じるか。お前、さては酔っているな。」
額をピシャリと叩いて片倉は朝倉に笑顔で応えた。彼の頬は赤みを帯びている。
「トシさんの老後の面倒は俺が見んといかんがですよ。」
「ほう。」
「あの人は背中で俺を育ててくれた。心から信頼できるエスであり、親のような存在です。独り身の親の面倒をみるのは子の勤めですよ。」
普段、笑みを浮かべない朝倉が珍しく口元を緩めた。そして彼は片倉のグラスに並々と酒を酌した。
「孝行息子を貰ったな。トシさんは。」
2人きりの席は一時間半ほどに及んだ。片倉は家庭の事もあると言って一足先に店を後にした。部屋に1人になった朝倉は携帯電話を取り出した。
「おい。」
「お疲れ様です。」
「本当に疲れるよ。」
「は?」
「工夫しろ若林。」
「あまり事を荒立てるなといっただろう。」
「ですが、あまりに突然のことでしたので。」
「その後の工夫が足りんと言ってるんだ。」
「はっ。もうわけございません。」
「しかしお前は籠絡だけは上手い。」
「ありがとうございます。」
「だが程々にしておけよ。あまり深入りすると足がつく。」
「何せ公安の奥方ですからね。」
「ふっ。」
店を出て辻を曲がった所で片倉は電話を取り出した。
「お疲れ様です。」
「おう。ネタ元のネタはどうだった。」
「やはり若林については話しませんでしたよ。」
「そうか。ならば良い。」
「今川についても未だ知らんようです。」
「なお結構。」
「トシさんには今川をケイゾクさせます。」
「わかった。」
「今日の詳細はまた報告します。」
簡潔なやりとりだけをして片倉は電話を切った。そしてそのまま携帯を操作し、先程の朝倉との席の中で送られてきたメッセージを開いた。
「来たか…。」
立ち止まった片倉は携帯を手にしたまま、その場に立ち尽くした。