第四十話

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第四十話
五の線2 第四十話
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MP4動画/オーディオファイル 20.3 MB
石川大学は山を切り開いた場所にあり周辺には森しかない。日が暮れると点在する街頭とキャンパスから漏れる明かり以外の光源はここにはなく、辺りは闇に包まれる。闇を背に虫達が鳴き、光源に吸い寄せられるように飛翔する。アスファルトは日中に溜め込んだ熱気を大気に放出し、そのために独特の臭気を醸し出す。これら外の状況とは無縁の空調設備が整った研究室に下間芳夫はあった。彼は自身の椅子に身を委ねながら、老眼鏡を鼻にかけ、手にする携帯電話を操作しそれを机の上にそっと置いた。
「ふーっ。」
彼は部屋にかけてある月表カレンダーに目をやった。
「今日は7月14日か…。」
バイブレーションが作動する音が聞こえた。どうやら彼の鞄の中からのようだ。下間は億劫そうに立ち上がりゆっくりとした動作でそれを手にした。
「大変でしたね。」
「別に。ちょっと社会見学しただけよ。」
「居心地はどうでしたか。」
「はっ。冗談も言う気が失せるほどつまらんところだ。」
「そんなに。」
「捜査一課の岡田ってやつが俺とかHAJABの周辺を漁ってる。」
「ええ。こちらにも報告が入っています。」
「そうか。」
「その岡田って男、案外鼻が効くようですね。」
「確かに。」
「ですが北署の若林によって更迭された。」
「ああ。早速手を打ってくれた。」
「相変わらず仕事が早いですな。」
「ちょっと強引でハラハラするがな。」
下間は机の上に置かれた手のひらサイズの木製のツボ押しを手にした。それは可愛らしい熊の顔が3つ並んだもので、握るとその耳や鼻がツボを心地よく刺激した。
「ふーっ…。片倉と朝倉が会うそうですよ。」
「聞いている。」
「そうですか。」
「あいつのことだろう。」
「ああ、あいつですか。」
「派手なことしたからな。自分の存在を知らしめるようなもんだ。」
「そうですね。」
「どこかのタイミングで消えてもらわないとな。」
「確かに…。」
下間は手にしていた熊のツボ押しを元の位置に仕舞った。
「金沢銀行に小池田って奴が居てな。」
「誰ですか。」
「橘の直属の上司だ。」
「ああ融資部の。」
「そいつを間もなく消す。」
「どうして?」
「奴にもっと入り込んでもらわないといけないからな。」
「金沢銀行で何か変な動きでも?」
「加賀が動いている。」
「加賀…。」
「俺と仁熊会の関係を嗅ぎつけた。」
「本当ですか。」
「ああ。」
下間は頭を抱えた。
「なぜあなたと仁熊会との関係が。」
「わからん。だがドットメディカルをめぐる融資案件があいつの手で否決されそうな流れだ。」
「何か掴んでいるんですか。」
「おそらくは。」
「だったら決定権を持つ加賀本人を消せばいいじゃないですか。」
「鍋島が断るんだ。」
「え?」
「あまりにもあからさまな対応になるから、融資の大きな権限を握る小池田を消して橘をそのポストに就けた方がいいってな。」
「しかし、それでは根本問題の解決にはならないと思います。」
「だが今のところ物理的な対応はあいつに頼る他ない。」
再び下間は頭を抱えた。
「私の教育が行き届きませんでしたか…。」
「ほんとだよ。君は教育者としては一流とは言えないな。」
「面目次第もありません。」
「悠里と麗はどうだ。」
「ええ。順調です。」
「そうか。機は熟す感じか。」
「いやそれが…。」
「どうした。」
「麗が2日だけ休みがほしいって言ってきまして。」
「休み?」
「何でもここ数日の間に疲労が溜まったようなんです。」
「体でも壊したか。」
「まぁ少しだけ。」
「なんだ、君の周辺は何やら雲行きが怪しそうじゃないか。」
「いえ。ご心配なく。着実に準備は進めていますので。」
「進捗は。」
「中核を成すメンバーは揃っています。」
「SNSを見る限り、結構な賛同者がいるようだな。」
「週末には予定通り行わせます。」
「分かった。くれぐれも公安には注意しろよ。」
「ええ。」
「しかし決行直前にマドンナが姿を消すとはな。」
研究室から見える近くの街灯には比較的大きめの昆虫類が激突し落下した。大きさから見てカブトムシかクワガタであろう。
「演出のひとつとして受け止めてもらえれば幸いです。」
「演出?」
「はい。」
「何だそれは。」
「この間のコミュで麗は悠里によって虐げられました。悩みを抱えたあいつが一旦姿を消し、再度コミュに決意新たに参画する。それであの一団は団結力が増すって事です。」
「…ふうん。」
「悠里と麗についてはご心配なく。あいつらはしっかり自分たちの役目を理解して行動しています。全てが我々の思惑通りです。」
「そうか。では、よろしく頼む。」
電話が切られ下間は大きく息を吐いた。そして彼は懐に忍ばせてあった一枚の古ぼけた写真を手にした。
そこには青々とした大空の下に建つ煉瓦造りの建物を背にした四人の肖像があった。彼はその中に写るひとりの女性の姿を見て呟いた。
「もうちょっとだよ。志乃…。」
志乃と呼ばれた女性の横には若かりし姿の下間の姿があった。


パソコンの画面を見ていた松永は親指の爪をカリカリと齧った。
「そう来たか…。」
彼は警察官データベースにアクセスし、ある男の経歴を確認した。
「1977年任官。金沢南署警備課配属。輪島中署、能美署、七尾中署、小松南署。一貫して警備畑。5年前から県警本部警備部公安課配属…。」
マウスのスクロールボタンをころころと動かしながら松永は独り言を呟いた。
「で、3年前にどうだって?」
彼は別のウィンドウを開いてそこに映し出されるファイルの中身を見た。
「三好警備課長とは同郷。実家も近くであり、県警本部公安課配属後、秘匿性が最も重要視されるその身分にも関わらず、日頃から三好と公私ともに密接に関わっていた。そのためか熨子山事件時の氷見検問所における検問状況報告書改竄の責任を問われ更迭された三好をめぐる処遇に最後まで異を唱える。事件解決後、三好は懲戒免職。それと同時に富樫は当時の警備部長に辞表を提出した。しかしそれは受理されず今日に至る。富樫の公私混同は三好の退職以降報告はされていないが、休暇中に三好の自宅を訪問する富樫が確認されており、未だにその関係は途切れていないと考えられる。そのため富樫の動向には注意が必要である。」
松永は腕を組んだ。
「冨樫正司か…。」
携帯電話が鳴った。
「なんだ。」
「お疲れ様です理事官。ご覧いただけましたか。」
「ああ。いろいろと思惑が見え隠れする内容だな。」
「そうでしょう。」
松永は携帯電話をデスクに置き、スピーカモードにして会話を続けた。
「お前の直属の部下である冨樫が、お前の動向をあちら側に流していたとでも言いたいのか。」
「まぁマサさんは三好さんの件を根に持ってましたからね。三好さんだけじゃないですから。当時脛に傷を抱えていたのは。それなんに三好さんだけ更迭ですから。」
「そうだとしても何でその恨みの矛先が今の直属の上司であるお前に向けられるんだ。」
「熨子山事件の解決を図った当事者のひとりですよ私は。あの事件を契機に出世した部類の人間です。理事官。あなたもですよ。」
「確かにそうだがな…。」
「その書類はマサさんが黒に近いグレーだって言っている。」
松永は頭をかいた。
「俺がいまお前に言えるのは、気をつけろってことだけだ。」
「はい。常に気をつけています。」
「ふっ。」
松永は苦笑した。
「いっそ泳がせておけと朝倉部長に言われました。」
「じゃあそうしておけ。」
「わかりました。」
「ところで古田はどうなんだ。」
「佐竹と接触したようです。」
「で。」
「トシさんのその後の動きを見ると、山県久美子の周辺の警戒に当たりつつ、こちらの依頼通り今川の周辺を洗うみたいです。」
「古田は鍋島が久美子を監視していることは承知しているということか。」
「佐竹を介しておそらくは。」
「奴ひとりで全てを賄うのは無理だ。応援をよこせ。」
「ご心配なく。手は打ってあります。」
「古田はエスだが公庁のエスでもある。その辺りは大丈夫か。」
「大丈夫でしょう。トシさんなら上手く立ち振る舞ってくれますよ。自分はこれから朝倉部長と合流します。」
「そうか。」
「久美子に関してもうひとつあります。」
「何だ。」
「かつて久美子は穴山和也と井上昌夫によってレイプされました。」
「そうだ。それが熨子山事件の重要な背景だ。」
「それがです。どうやらこの件については真犯人がいるようなんです。」
「なに?」
「藤堂豪。」
松永の動きが止まった。
「藤堂?」
「はい。金沢銀行に侵入しその守衛を殺したと思われる重要参考人です。この藤堂が山県久美子の父、山県有恒に直接接触して告白したそうです。」
「何だと。」
松永は機敏な動作でパソコンを操作し、当時の捜査資料を閲覧した。
「井上と穴山の指示者である村上なら未だしも、藤堂です。」
「待て待て。当時のステークホルダーを今見ている。」
「理事官。パソコン見んでもピンときませんか。」
キーボードを操作する松永の手が止まった。
「いや、片倉。それは無いだろう。」
「俺も無いと思う気持ちの方が大きいですが、当時のステークホルダーを洗うとひとりの人間しか思い浮かばんがですよ。」
松永のパソコンには2人の人物の顔写真が表示されていた。
「まさか...整形か...。」
「まさかですよね。」
「しかしここまで人間の顔は変わるものなのか。」
「ですけど、それが一番自分を納得させられるんです。」
「分かった片倉。これはこれで俺の方で専門家に当たる。もしそうだとすると...。」
「コンドウサトミは誰だってことになってきますね。」
「コンドウサトミ=鍋島=藤堂か...。」
「有り得ることです。」
松永は画面に表示された協力者の中の形成外科医の情報をメモに書き記した。そして内線電話で部下を呼び、鍋島の顔から藤堂の顔に整形できるか調べろと命令した。
「一色、佐竹、赤松、村上、鍋島。」
「ここに来てまたあの人間たちの関係が復活するのか...。」
「まさかの五の線ですよ。理事官。」
「あぁまさかのだな。」
「取り急ぎ念には念を入れて佐竹と赤松にはウチのもんにマークさせました。良かったらチヨダからも人員を派遣下さい。」
「分かった。警視庁から数名派遣させる。」
そう言うと松永は再び部下を呼び出して、その旨を指示した。彼の決断と命令の速度は疾風迅雷といってもおかしくない。
「それじゃあ私はちょっとご馳走になってきます。」
片倉の話題の転換を受けて、松永は気持ちを切り替えた。
「食い気に負けて、肝心のネタ引っ張ってくるの忘れるなよ。」
「いやぁどうですかね。自分じゃなかなか行けないカウンターの寿司屋ですから心配です。」
「回転すしでも十分美味いからな。北陸のは。」
「本庁の方はいつもそう言いますけど自分は地元の寿司しか食ったことないからよく分からんがです。そんなに違うもんですかね。」
「ネタだよネタ。片倉。」
「ネタ?ああ…はははは。理事官。それは寿司に掛けたシャレですか。」
「すぐに気づけよ。」
「すいません。」
「ネタ元の情報は鮮度が違うからな。」
部屋のドアがノックされた。松永は少しだけ待てと言って携帯を手で覆った。
「何だ。」
「失礼します。片倉課長からメールが届いています。」
「こっちに送れ。」
「はっ。」
「今度は何だ。」
「仁川の交友関係を知る手がかりです。なかなかおもしろい情報ですよ理事官。」
松永の前のデスクトップパソコンに一通のメールが届いた。音声ファイルが添付されている。
「なんだこれは。」
「まぁ聞いてみてください。」
片倉が言うとおり松永はその音声ファイルを再生した。

「ヴゥーヴィロ ハラショー」
「エートッ カック テシィーニェア ドヴォッフ ニィー」
「ォ ダロォグイ」
「ハロシェィヤ ヴェシュタム シュトヴェホーテリ」
「イオト イメニドロギフックラ スノゴ  ウトミテルノゴカンェシィノ」
「ェストゥ」
「オフ ヤテピル」

「この言葉は…。」
「ええ、さっき入手したばかりなんで何しゃべっとるかわかりませんが下間芳夫の研究室で交わされていたものと酷似するしゃべりです。細田が入手した音声ファイルとキヨが入手したものを合わせて神谷に解析させてもいいでしょうか。」
「良いだろう。」
「ではあいつにはそろそろ今回の任務について説明しても良いということで?」
「構わん。」
「しかし神谷は変な正義感を振りかざす悪い癖があるようですよ。長尾の死のことにも俺に突っかかって来ましたから。」
松永はにやりと笑った。
「それは俺らにとって最も重要なものだよ。片倉。」
この言葉を受けて電話の向こう側の片倉は沈黙した。
「どうした。」
「いえ。何でもありません。また報告します。」
電話を終えた松永は室内のソファに腰を掛けた。
「こういう状況です。」
「なるほどな。」
「ここにきて急に動きが活発になってきました。」
「時が来ているということか。」
松永の眼前には白髪頭の男の姿があった。
「そうだと思います。波多野先生。」