第三十六話

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第三十六話
五の線2 第三十六話
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「なんだなんだ。男子剣道部と女子剣道部の部長同士でお付き合いか?」

「先生。そんなんじゃないです。」
金沢北高生徒指導室の席に座っていた男が立ち上がって、相馬と京子にソファに腰を掛けるよう促した。
「あの時は口もロクに聞かんかった男剣と女剣の2人がまさかこんな仲になっとるとはね。」
「だからそんなんじゃ無いって言っとるでしょ。」
「相馬。ムキになんなま。」
にやけ顔が止まらないのは生徒指導担当の卜部であった。彼は相馬と京子が北高に在籍していた時の剣道部の顧問である。卜部は二人に向かい合うようにソファに腰を掛けた。
「で、どうした?」
「何か無性に道場に雰囲気に触れたくなって来たんです。」
「へぇ。お前、大学でも剣道やっとるんか?」
「いえ。」
「片倉は?」
「私も辞めました。」
卜部は肘掛から腕をかくっと落とした。
「ほんねんに何でぇや。」
「いや。何か、ほら。ネットとかでたまに剣道の動画とか見ると無性に稽古したくなる衝動にかられる時あるんですよ。」
この相馬のコメントに卜部は確かにその気持ちは解ると同意を見せた。
「でもお前、そんなんに手ぶらで来たんか?」
「ええ。まぁ。」
「片倉もか?」
「はい。」
卜部は2人の無計画さに呆れた顔を見せた。
「ひとつだけ防具余っとるけど、さすがに他人の防具着けて稽古って訳にもいかんやろう。」
「え?余っとるんですか?」
卜部には無性に稽古をしたくなったと言ったが、やはり他人のものを身につけてまでそれをやろうと思わない。剣道の経験者ならばあの防具そのものの臭いと汗が混ざった異臭をご存知だろう。それは乾燥されることで低減されるが、他人の汗を吸い込んだ状態のものを身につけようとは思わない。身につけるとしてもせいぜいで肌が直接的に当らない胴か垂程度。面はさすがに御免である。
「ああ。道着もあるぞ。」
剣道の道着は刺し子の道着と綿袴。女子の実情は分からないが、男子剣道部であれば刺し子は素肌に着、袴の下には下着は身につけないのが普通。百歩譲って他人の刺し子を着たとしても、袴だけは勘弁してもらいたい。
「やっぱり俺、稽古の様子見るだけでいいですわ。」
「私も。」
「ほうか。ほんなら今から道場に一緒に行くか。」
相馬と京子は卜部と共に剣道場に向かった。
放課後の北高では色々が音がなっている。どこかの運動部が声を出してランニングしているかと思えば、ブラスバンドの楽器の音が鳴り響く。時々すれ違う生徒は皆、男であろうと女であろうと元気の良い声で二人に挨拶してきた。軍隊ばりの校風は2人が卒業した今でも健在であるようだった。北高正面玄関付近に差し掛かった時、各部活の活躍のしるしである優勝旗やトロフィーの数々を目にした。相馬はそこで立ち止まって剣道部のものを探した。
「おう。お前卒業してからウチはベスト16止まりやわ。」
「そうなんすか?」
「どうせやからお前、ちょっと後輩らに気合い入れてやってくれま。」
「あっ。」
剣道部のものを見つけた相馬は自分達の世代の戦果である県大会3位のトロフィーを眺めた。その横には一色世代の県大会準優勝のトロフィーがあった。
「こんちわっ。」
大きな声で挨拶をされた相馬は振り返った。学生服姿の男子であった。
「あ…どうも。」
「おい。相馬。どうもじゃないやろ。こんにちわやろいや。」
卜部が相馬に注意した。
「あ、すいません。」
「ったく…。高校卒業したらどいつもこいつも碌にちゃんとした挨拶できんくなりやがってからに。」
「あれ?」
「どうしたん?」
「あ…。いや…。」
「ほら早よ行くよ周。」
ー何やこれ。何かこの感覚…。どっかで同じこと経験したような…。
「行くよー。」
京子に促されて相馬は剣道場に向かった。
道場の扉を卜部が開くと、その中から奇声とも言える掛け声と打突音が鳴り響いていた。
「地稽古やぁ。」
何となく相馬についてきた京子であったが、稽古の風景を見るや否や彼女の目は輝いていた。地稽古とは互角稽古とも言われ、実力が同等な者同士で勝敗を決さずに持てる力をぶつけ合うものである。簡単に言えば審判がいない試合形式の稽古だ。実戦そのものと言っても良い。
「しばらくぶりに見ると何か体、うずうずしてくるな。」
相馬も京子同様、目を輝かせていた。その2人の様子を見て卜部は嬉しそうな顔をした。
「相馬。いつでもお前も稽古に参加できるぞ。」
そう言って卜部は道場隅の防具棚の一角を指差した。
「でも急にこいつらとやると流石に怪我すっか。ははは。」
相馬は道場に立てかけてある3尺8寸の竹刀を手にとってそれを構えた。左足のかかとを上げ、右足を気持ち前に出し、重心を落とす。前後に摺足で移動しながら何度か竹刀を振りかぶっては下ろした。素振りである。10回素振りし思いっきり左足のかかとで床を蹴り、右足を大きく前に踏み込んで何も無い空間に面を打ち込んだ。
「ダメや…。足が言うこと効かんわ。」
相馬の足捌きは無残なものだった。
3年のブランクは相当のハンデである。一見、剣道というものは竹刀の運用という意味で腕力がものを言うように見える。しかし実のところ足捌きこそ重要なのだ。竹刀の運用は以外と年月を経ても自分の思うようにできるが、この足捌きがついてこない。上半身は動けど下半身がそれについてこず、結果、極度の疲労が襲い、あっという間に現役の人間に打ちのめされてしまうのである。
「先生。俺、見とり稽古で充分ですわ。」
京子も相馬と同じく竹刀を構えて、彼と同じ動作をした。彼女もどうやら3年のブランクが絶望的である事を悟ったようである。
「やめーっ。」
卜部が頃合いを見計らって声を上げた。彼の合図に道場内の剣士達はお互いに竹刀を一足一刀の間合いで構え、蹲踞をし竹刀を納め、礼をして卜部の前に駆けつけ整列した。
「今日はお前たちの先輩である相馬と片倉が君らの稽古を見に来た。この2人は3年前の県大会で男子女子ともベスト4に入った時の部長や。2人に恥ずかしくない稽古をしろ。」
「はいっ‼︎」
「おい。杉本。」
「はいっ。」
「今日は後、何やるんや。」
「後、何セットか地稽古して終わります。」
「え?」
相馬は意外そうな声を出した。それを遮るように卜部は稽古を再開しろと杉本に指示し、稽古は再開された。
「先生。掛かりはやらんがですか。」
掛かりとは掛かり稽古のことを指す。その名の通り、掛かり稽古とは元立と掛かり手の二人一組となり、掛かり手が元立に掛かっていく稽古である。絶え間なく激しく打ち込む気力と体力の鍛錬を行う壮絶な稽古であり、剣道経験者のトラウマとなっているケースも少なくない。
「お前らの時と状況が違っとってな。」
卜部はため息混じりに呟いた。
「どういうことです?」
「保護者からのクレームや。」
「はぁ?」
相馬たちが卒業してから間もなくある剣道部部員の保護者からクレームが入ったようだ。内容はシゴキに近い練習が剣道部内で行われているというもの。それが掛かり稽古の多さだった。その保護者は剣道強豪校の練習内容を調べ、そこではこんなにひどい練習はされていない。それなのにこんなにきつい練習を課しているのはシゴキや体罰以外の何物でもないと言うのである。改善がされなければ訴訟も辞さないとの態度であったため、学校側は練習の改善を卜部に指示。問題が起こる元である掛かり稽古そのものを行わせないようになっていた。これもこれからのお客さんとなる保護者連中の評判を気にしてのものであった。
「まじっすか?」
卜部は頷いた。
「ちょっと時間経つだけで、北高も随分変わるもんですね。」
「客あっての商売やしな…。」
「じゃあ俺らの時のメニューってどうなったんですか?」
「それはあそこに仕舞ってある。」
卜部は防具棚を指さした。予備の防具が仕舞ってある箇所である。
「あいつには悪い事をしたと思っとる…。」
「悪いこと?」
「お前ら当時の現役の連中にもな…。」
卜部がこう言った時である。道場の扉が開かれた。
「あ、西田先生や。」
扉の先にいた男を見た京子が言った。西田と呼ばれる教員は正面に礼をして三人の元に寄ってきた。
「どうしたんですか西田先生。」
「卜部先生。相馬くんと片倉くんですね。」
「ええ。そうです。」
「ちょっと話があるんです。」
「この2人に?」
「ええ。」
「あ…。」
相馬の動きが止まった。
「どうしたん周。」
ーそうや。思い出した。変なおっさんが来とったんや。ほんでブツブツ言って何かメモとっとったんや。
「こんにちは。」
「あ、どうも。」
ーほんでそのおっさん。西田先生のとこに行っとった。
「周?大丈夫?」
「あ。ああ…。」