第三十五話

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第三十五話
五の線2 第三十五話
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「何処行ってた?」

「何処だっていいでしょう。」
「あいつか。」
「知らないわ。」
「ふん。都合が悪いことには黙秘かい。」
「何よ。何が言いたいのよ。」
金沢市中心部のテナントビルの一室にドットスタッフがある。仁川はフロア奥の社長室で窓側に立ち、眼下にある国道157号線を行き交う車を眺めた後、ブラインドを下ろした。そして革張りの上質な椅子の背もたれに身を預け、目をこすった。
「言っただろう。こっちにあの手の人間を巻き込むなって。」
「あの人達はまだ入ってないでしょう。」
「あのな。俺らに探りを入れるような奴とは接点を持つなって言ってるんだ。」
「何よ。あの人達別にそんな事してないでしょう。第一見学だけでもしていったらどうだって、あなたが言ったんじゃない。」
「ああ...。そうだった。すまない。」
「それなのに何で最後の最後で私が責められなくちゃいけないの?」
「いや、あれはあくまでも組織としての団結力を高める為で。」
仁川は眼鏡を外し、鼻の付け根を摘んだ
「何よ。組織組織って。」
「何度も言うように、お前には革命のシンボル的存在になってもらわないといけないんだ。その為に必要な演出なんだって。」
「もう私...。疲れたわ。」
「疲れた?」
「...。いろんな人の悩み事を否定することなく聞き入れるのは疲れるわ。だって突っ込みどころ満載なのよ。それなのにそうだね、君は悪くないよとか言ってると何やってんだろう私って思ってくるわよ。」
彼は溜息を吐いた。
「わかってる。わかっているから愚痴のひとつやふたつ言いたくもなるの。」
「何だ、まさかその愚痴、長谷部に言ったのか。」
仁川の眼つきが鋭いものになった。
「言ってないわ。」
「何を話した。」
「他愛もないことよ。」
「他愛もないって何だ。」
「何よ。何心配してんの?」
「心配ぐらいするさ。急にお前の様子がおかしくなったからな。あの晩から。」
「何?妬いてるの?」
「馬鹿言うな。なんで妹にヤキモチなんか焼かなきゃならないんだ。」
「ふーっ。私だって自分の悩みを聞いて欲しいのよ。」
「お前の悩み?」
「そうよ。」
「何だ悩みって。」
「そんなのいきなり兄さんに言えるわけないでしょ。」
「待て、お前。俺に言えないことを長谷部に言ったのか。」
「兄さんには関係ないことよ。」
「どうしたんだ麗。やっぱりお前なんか変だぞ。」
「ここに来てから3年。今まで私はお父さんと兄さんの言う通りにしてきたわ。でもね、何か疲れてしまったの。兄さんやお父さんが言う革命のシンボルとかって結局、それを成就させたい人たちが錦の御旗みたいな物が欲しいだけでしょ。」
「おい。麗。お前はその為にこの日本に来たんだろう。あっちにいる時から俺らはそれを人生の目標にして生きてきたじゃないか。それを今更何だ。気でも変わったか。」
「そんなのじゃ無いって。役割は私も理解しているわ。只...。」
「何だ。」
「本当に疲れてしまったの。だから少し休ませて欲しいのよ。」
「休む?」
「ええ。」
「どれくらい?俺らにはそんな悠長な時間はないぞ。」
「一週間とか休ませてって言ってるわけじゃないの。二三日でいい。」
「休んでどうする。」
「好きなことしたいの。」
「好きなこと?」
彼女は立ち上がって冷蔵庫の前に立った。そしてその中から一本の缶ビールを取り出してそれに口をつけた。
「何だ好きなことって?」
「何よ兄さん。随分私に詮索入れてくるわね。」
「だから心配なんだって。お前長谷部に誑かされてんじゃないか。」
「あの人はそんなんじゃないわ。」
「まさか…お前、長谷部に惚れて。」
「違う。」
彼女はきっぱりと言い切った。
その時である。部屋がノックされた。
「ポゥヴレミニィ (ちょっと待て)」
「何だ。」
「すんませんね。掃除しますよ。」
「ああ。ありがとう。」
腰が曲がった老婆が台車を転がせながら部屋に入室してきた。それを横目に仁川は電話を続けた。
「ヴゥーヴィロ ハラショー(まあ良いだろう。)」
「スパシーヴァ(ありがとう)。」
「エートッ カック テシィーニェア ドヴォッフ ニィー(2日でどうだ)」
「ノ ドスタトゥチノ(充分だわ)。」
「ォ ダロォグイ(まあ...)」
「シュト (何?)」
「ハロシェィヤ ヴェシュタム シュトヴェホーテリ(好きな事があるのは良いことだ)」
「ニェヴォリューティス プロスト デヴェルシィヤ(心配しないで。ただの気分転換よ。)」
「イオト イメニドロギフックラ スノゴ  ウトミテルノゴカンェシィノ(赤の他人になりすますのは、確かに疲れる)」
「ウ ミィエニャ ェストヴレムヤ シュトビィ ポドゥマット タコェ ダッツェ オブラート(へえ 兄さんもそんな事思う時があるんだ)」
「ェストゥ(あるさ)」
「ソロコゥフィ ジソン サソフィヤ(48時間ね)」
「オフ ヤテピル(ああ。今からだ)」
電話を終えた仁川は緩慢な動きで部屋の中を静電気モップのようなもので拭く老婆を見た。
「初めて見ますね。」
「ええ。よろしくお願いします。」
「おいくつなんですか?」
「へェ 70です。」
「へえ。」
「あんまり聞いたことない言葉ですけど、流暢にお話ですねぇ。」
「ありがとうございます。」
仁川は老婆の側に寄った。
「どうされたんですか?」
彼女がこう言った瞬間。彼は台車に積まれているゴミ袋の結び目を解き、その中身を床にぶちまけた。
「ああっ‼︎何されるん‼︎」
「何言ってんだ。タイミングが良すぎるんだよ。」
床に散乱するゴミを彼は足で掻き分けた。
「何すらんや‼︎」
「うるさい‼︎スパイめ。」
「何言っとるんですか…やめて下さいよ…。早く戻らんとまたワテ怒られてしまいます…。」
力なく床に座り込んで懇願する老婆には目もくれず、仁川はひたすらにゴミを漁った。
「おかしい…無い…。」
「何やっとるんですか…お願いです…。堪忍して下さい…。」
彼はおもむろに床に散らばったゴミを片付け出した。
「すいません…。僕、どうかしていました。」
ゴミを即座に片付けた後、仁川は老婆からモップを借り部屋の中をひと通り掃除した。その様子を彼女は呆然として見つめていた。緩慢な動作の老婆に比べて、仁川の動きは誠に機敏で掃除はあっという間に終えられた。
「申し訳ありませんでした。」
そう言うと彼は財布を取り出して一万円札を一枚取り出した。
「これはお詫びです。」
「え?」
「受け取ってください。」
「い、いえいえ。困ります。そんなん受け取れん。」
「お母さん。70なんでしょう。その年でこんな仕事してるのは何かしらの理由があるはずです。」
老婆は黙った。
「人には言えない事もあるでしょう。良いですから受け取ってください。」
彼はそれを4つに折りたたんで老婆の掌に置き握らせた。老婆の目には涙が浮かんでいた。
「お名前は?」
「キヨと言います。」
「キヨさんね…。」
「はい。」
「困ったことがあったら此処に行くといいかもしれません。」
仁川はパソコンから一枚の紙を出力した。
「何です?これ。」
「キヨさんみたいな悩みを抱えた人達が集う場所ですよ。次は今週の水曜日にあります。良かったらどうぞ。」
渡されたチラシを丁寧に折りたたんで前掛けのポケットに入れ、老婆は仁川に頭を下げた。
「あんやとう。」
「こっちこそすいませんでした。また掃除に来てください。」
何度も礼を言い台車を押しオフィスを後にした老婆の後ろ姿を彼は見送った。扉が閉められた後、彼は深い溜息をついた。
「なんだよ。俺も疲れてんのか。」
椅子に腰を掛けデスクの引き出しを開き、一枚の写真を手にした。
「俺は何者なんだ…。」
彼が手にする写真には日本の原風景とも言える、ある農村地域の風景がモノクロで映し出されていた。