第三十一話

ダウンロード
第三十一話
五の線2 第三十一話
32.m4a.mp4
MP4動画/オーディオファイル 23.4 MB

香林坊の喫茶店。窓に面する形でカウンターテーブルが配されている。ラップトップパソコンを開いて何かの作業をしている者もいれば、イヤホンを付けて勉強をする素振りを見せるものもある。それらの中に本を片手にそれとなく窓から外の様子を伺っている男がいた。

「ようこそ。」
背後に気配が感じられたため、男は振り返ることなくこう切り出した。
「座るぞ。」
「どうぞ。」
左隣で椅子を引く音が聞こえた。半袖ポロシャツ姿の細身の中年男性がコーヒーをテーブルに置いた。
「誰だ。」
「仁川ですよ。」
朝倉は時計に口を近付けて何かを囁いた。
「あなたは?」
「今川。」
朝倉は折り畳まれた新聞を取り出してそれをテーブルの上に置いた。
「とれたてのホヤホヤも入っている。」
片倉はそっとそれをカバンの中にしまった。
「イヌは?」
朝倉は何の反応も示さない。
「どうするんです。」
「それを読んでお前と松永で判断しろ。」
片倉もこれには反応を示さなかった。
「直々に金沢に来られるって事はあれですか。」
「まあな。」
「3年目の正直って具合にしたいですね。」
朝倉は遠くを見つめて軽く息をついた。
「コンドウが動くぞ。」
「そうでしょうね。」
「ふっ...いや、もうその言い方は止めよう。」
片倉はコーヒーを啜りゆっくりと口を開いた。
「...鍋島 惇。」
「所在は分かったのか。」
片倉は首を振った。
「そうか…。」
「部長は?」
朝倉も首を振るだけである。
「あいつだけはどうにも掴めん。」
「神出鬼没って奴ですか。」
「片倉。」
「はい。」
「危なかったらしいな。」
「もうお聞きななられましたか。」
「警察携帯と聞いている。」
片倉は罰が悪そうにぴしゃりと額を叩いた。
「そっちのイヌはどうなんだ。」
「まだ分かりません。」
「いっそ泳がせておけ。」
「ええ。そのつもりです。あっちの方から直接コンタクトがあったのは今回が初めて。そろそろ動く合図でしょう。」
朝倉は熱いコーヒーを啜り頷いた。
「なんとしても防げ。」
「ええ。」
片倉はニヤリと笑った。
瞬間彼は左耳に装着していたイヤホンに指を当てた。
「対象確認。南町方面に移動。」
「こちら尾山神社。対象確認次第、暫時追尾する。」
「了解。」
「金沢か…。やっぱり寿司は日本海側のモノに限るな。」
「何処です?」
「いつもの。」
「ごちそうさまです。」
「こういう時のレスポンスだけは早いな。」
「では夜に。」
そう言うと片倉は席を立ち店を後にした。
彼が店を出るのを確認して朝倉は時計に向かって口を開いた。
「例の場所だ。準備しておけ。」


「どちらに行ってたんですか。」
「喫茶店ですよ。喫茶店。」
「こんな時期に悠長ですね。」
男はため息をつきながら鞄を自分の机の側に置き、デスクトップのパソコンを起動させた。
「社長。何事もゆとりが大切です。詰め込みすぎると身動きが取れなくなりますよ。アクセルにもブレーキにも遊びがあるでしょう。」
「何言ってんですか。時と場合を考えて下さいよ。」
「慌てない慌てない。ひと休みひと休み。」
「ったく。あんたは肝心な時にいっつも居ないんだから。」
ドットメディカルCEOである七里為朝が呆れた顔である。四十代前半のこの男、この7月半ばの熱れ(いきれ)にも関わらず、仕立ての良いピンストライプのスーツをバッチリ着こなしている。クールビズといった出で立ちとは無縁な完全武装である。しかし彼が着るスーツの生地そのものが良いのか、一見暑苦しさしか感じ取れないはずのスーツ姿が、彼のそれは爽やかささえ感じさせるものであった。この着こなし、成り上がりの新興企業CEOにありがちなにわか仕立てのものではない。センスや育ちの良さが光る内面から出る着こなしである。
部屋のドアがノックされた。
「ほらお待ちかねですよ。」
男はどうぞと言うとノーネクタイの半袖Yシャツ姿の男が入室してきた。
「今川惟幾さんですね。」
「はい。」
男は警察手帳を見せた。
「北署捜査一課の岡田と申します。捜査にご協力くださいませんか。」
「その言い振りは断ることができるんですよね?」
「任意ですから。」
「刑事訴訟法198条ね。」
「よくご存知で。」
聴取を断ろうとしたその真意を今川の目の動きを追うことで図ろうとする岡田。一方ブレのない岡田の視線に真っ直ぐさよりも公権力という強大な力を背景にする、公僕の厚かましさのようなものしか感じられない今川。二人の思惑と視線が食い合っていた。
今川への聴取はドットメディカル本社ビル3階の応接室で行われることとなった。総務課の女性社員が岡田と今川の2人にコーヒーを給仕し、一礼して部屋を出た瞬間、岡田は口を開いた。
「事件後から一切の捜査協力を拒んでいた貴方が、何故急に聴取に応じてくれるようになったんですかね。」
岡田はコーヒーを啜った。
「休みの日まで仕事を引きずるのは私の信条に反します。土日は定休日です。だから仕事に関する話は御免だったってだけの事です。」
経営企画部部長山県有恒の情報が藤堂という何者かに置き換えられ、それがために金沢銀行の守衛が殺されることになった。
「守衛は当時金沢銀行にやってきた藤堂豪を経営企画部部長であると判断しました。しかしこれだけではこの藤堂は行内に入ることはできませんでした。」
「ほう。」
「金沢銀行では時間外の銀行内への入退出は厳しく制限されています。一旦帰ってしまった行員は原則その日のうちに再び行内に入ることはできないことになっており、再入行するには総務部長の許可が必要となっています。」
「ふうん。そうなるとウチのシステムのセキュリティだけが問題じゃないってことですね。」
「ええ。」
岡田は頷いた。
「おたくが開発したシステムのセキュリティが破られて情報が置き換わった、それに加えて藤堂という男を金沢銀行の行員であると総務部長が認めた結果、深夜の銀行に部外者が侵入し殺人事件が起こった。」
今川はコーヒーにミルクを注ぎながら口を開いた。
「結果としてセキュリティホールを突かれたんですから、それは早急に改善します。金沢銀行に張り付いている現場の担当にも私から今朝指示を出しました。」
岡田は再びコーヒーを啜った。
「そうか。小松部長がそんな決裁を...。」
「彼がどういった経緯でそのような承認をしたのかは現在捜査中です。」
「小松さんは私もシステムの納入に際して色々とやり取りをしました。他人事ではありません。何とか真相を突き止めて下さい。」
「ええ。そのために現在捜査をしております。」
「ところで刑事さんは私に何を聞きたいんですか。まさか現状の報告だけで来たわけじゃないでしょう。」
もちろんと岡田は言い口を開いた。
「では、あなたの今の役職をお教えください。」
「ドットメディカル チーフインフォメーションオフィサー兼情報戦略事業部 事業部長。」
「それはどういった事をする役職ですか。」
「CIOは企業の経営戦略に沿った情報戦略やIT投資計画を策定する責任者です。うちの情報戦略事業部は簡単に言えば取引先から委託を受けてそのCIOと同じ業務を請け負う感じですか。」
「なるほど。となれば、貴方は金沢銀行の外部CIOみたいな存在ってことですね。」
「平たく言えばそうですが。私たちができるのは提案までです。権限はありません。」
「しかし、どうですか。私はそっちの方面には正直疎いんですが、ここらの民間企業の責任ある立場の人間ってのは、そのITに関する知識ってもんはいかほどなんでしょうか。」
「最近は個人情報の関係とか五月蝿いんで非常に気を使っています。ですが実際のところ責任ある立場の方がシステム的な知識そのものが無いので、信頼できる業者にお願いしっぱなしってケースが多いと聞きます。」
「聞きます?って事はおたくは違うんですか。」
「ええ。」
「それはどういう事でしょうか。もう少し説明くださいませんか。」
「刑事さん。それは企業秘密です。」
岡田は残念そうな表情を見せた。それを見た今川は軽く笑って口を開いた。
「まぁ刑事さんがこの業界に転職することなんかないでしょうから教えてあげますよ。」
「是非。」
「教育です。」
「教育?」
「こちらから人材を取引先に派遣して定期的に教育を行っています。これはサービスです。報酬は一切頂いていません。教育内容はそこらあたりの企業とは違ってみっちりやります。なので弊社の取引先の情報担当部署の方のスキルは一定の期間を経て相当のものになります。」
「そうか。会社が負担する教育に関するお金とか手間とかまるまる浮くわけか。」
「ええ。それらはドットメディカルが負担する。」
岡田はメモを取り続けた。
「刑事さん。これの真似して自分で商売したらダメですよ。」
今川を時折見ながら手元の手帳に必死でメモを取る岡田の様子をおちゃらかすように言った。岡田はとんでもない、自分にはそんな未知の分野に飛び込む甲斐性はないと言った。
「しかしそんなサービスをして肝心の儲けってどうなんですかね。」
「その仕組みはさすがに企業秘密ですよ。ちゃっかりと商売の極秘情報を盗ろうとしないでください。」
「そんなつもりはありませんよ。」
「ヒントだけ刑事さんにあげましょう。単なる物売りは最後は駄目になるもんです。他人の考える力を伸ばすことができる企業こそが利益を得ることができるんです。」
「という事は、金沢銀行の総務部さんもそれなりにそっち方面のスキルを持っていると?」
「そこいらの同年代の方と比べては相当高いものを持っていると現場から聞いています。しかし金融系の基幹システムってのは独特のセキュリティがありましてね。その部分は弊社で責任を持って管理しています。」
岡田はメモを取りながら目の前に座る今川という男の分析をしていた。ぱっと見では顎鬚をたくわえたロマンスグレーのいかにもインテリといった風貌。話しかけるなというオーラを醸し出し近寄りがたい。事実初見時はこちらに対して挑発的な態度を取って来た。しかし中身はそうでもないようだ。一旦膝と膝を付き合わせて話すと随分と饒舌で、尚且つ冗談も言うことができる。人を小馬鹿にするようなものが言葉の端々にあるが、基本は人と話すことが好きなのだろう。つまり、プライドは人一倍高い割に寂しがり屋。インテリながらもコミュニケーション能力はある。岡田はここで今川の様子を見た。
「エイチ エー ジェイ エー ビー。」
こう言って岡田は今川の様子を見た。
「ああ、HAJAB(ハジャブ)ですね。」
今川の表情に変化は見られないため岡田は続けた。
「そうです。金沢銀行のシステム端末をおたくから委託を受けて調達した会社です。今川さん。この会社と御社の関係についてお尋ねしたいんです。」
「どうぞ。」
「いつからのお取引ですか?」
「3年ほど前からですかね。」
「何がきっかけで取引が始まったんです?」
「私ですよ。私はこの会社に入るまでは東京の方でITコンサルを自営でやっていました。取引先にどういったシステム構成でどのようなハードウェアを利用して業務を効率化するべきかを提案していたんです。その際に小回りが利いて信頼がおけ、プロとしての素質を備えた人材豊富なハードベンダーとしてそのHAJABを取引先に紹介していました。その流れで弊社の業務においてもよく取引先に提案させていただいています。」
「貴方がHAJABを金沢銀行に勧めた。」
「いいえ。私はあくまでもHAJABをドットメディカルの仕入れ先にしただけのこと。あの会社の製品を利用するかどうかは、各営業担当に任せています。」
「貴方がHAJABと出会ったきっかけは。」
「見本市です。」
「見本市?」
「ええ。年に一度テック系の見本市みたいのが東京の方で催されているんですよ。そこでなかなか面白い取り組みをしているってことでご縁があったわけです。」
「HAJABの何が面白かったのでしょうか。」
「どうしたんです刑事さん。随分とHAJABに関心を寄せていますね。」
「ええ。まあ。」
「まさか本当に警察辞めてこっちの業界に来るんじゃないでしょうね。」
「まさか。」
今川はいいだろうと言い。HAJABについて語りだした。HAJABは創業からまだ5年と経たない会社。創業者は若干28才の江国健一。創業当初はクラウドを利用したサービス開発をする会社であったが、今川との接点を持ってからはオンプレミスとその動作を保証するハードウェアとそれを制御するOSの開発にも進出した。江国はじめHAJABの従業員の仕事に対するモチベーションは非常に高く、「それはできない」といったことは絶対に言わない。とにかく自分たちの能力の全てをつぎ込んで顧客の要望を形にした。何でも屋的な会社というのは物を右から左へと動かしてその利ざやで商売するところが多い。しかしHAJABの驚くべき点は、自分たちの守備範囲でないことも外注先を次々と買収をするなどして、全てを内製化し、ノウハウを自社に取り込んでいったところにある。そうこうするうちにHAJABはみるみるうちに業績を拡大していった。
「しかしそんなHAJABも世間一般ではマイナーな存在ですよね。」
「ええ。あそこはやたらめったら取引先を増やしません。」
「それはなぜでしょう。」
「仕事柄、秘密保持とかあるでしょう。それらを管理するのが大変になるんです。なので特定の業者としか取引はしないんです。それに取引先が増えるとわがままな客が増えて、それらに手を取られてサービスの質が低下するおそれがある。なので彼らはこれ以上取引先を増やすつもりはないと聞いたことがあります。」
「あなたはドットメディカルの情報戦略事業部の責任者。今回金沢銀行でトラブルが発生したのはHAJABの端末。あなたはこのHAJAB端末の不具合についても責任を負っているんですか?」
「表向きはそうです。しかしハードウェアのことに関しては我々ではどう対応してよいか分かりません。我々は金沢銀行さんの問い合わせ窓口となりますが、その修理等はHAJABにお願いすることになります。」
「御社はあくまでも金沢銀行のシステム。すなわちソフト面のことだけしか分からない。」
「そうです。」
岡田は唸った。そして天を仰いだ。
「私はIT関係のことは正直不得手です。」
「そうでしょう。仕事とはいえ大変ですね。」
「金沢銀行さんの担当者とかウチのサイバー担当からいろいろ話を聞いたんですけど、どうも慣れない言葉が飛び交うもんで少々難儀なんです。」
「何ですか。何ならウチの担当者から刑事さんにレクしましょうか。」
「でも厳しいんでしょう。御社の教育は。」
「少々。でも、刑事さんは残念ながら弊社の取引先じゃない。なので有料になりますよ。」
今川はニヤリと笑った。
「有料か…。」
「ええ。」
「捜査の一環として協力戴くってのは無理ですか。」
「捜査の一環?」
「はい。捜査の協力ということでお力貸してくれませんか?」
今川は腕を組んだ。正直警察に付き合うほどドットメディカルは暇ではない。しかし理由もなくこの岡田の申し出を断るとかえって警察にあらぬ嫌疑をかけられるかもしれない。
「…いいですよ。」
「本当ですか。」
「…ええ。弊社のスタッフをお貸しします。」
「いや、スタッフさんだと困るんです。」
「なぜ?」
「あなたに教えてほしんですよ。」
「何を?」
「OSについて。」
「え?」
「長尾俊孝さんをご存知ですよね。今川さん。」
瞬間、今川の顔色が変わったのを岡田は見逃さなかった。
「いえ誰ですか?」
岡田はポケットからビニールの袋に包まれたメモ用紙を取り出した。
「ほら。ここに書いてある。」
岡田が見せるメモ用紙には殴り書きの文字があった。
「OS I(オーエスアイ)これはHAJAB端末のOSですね。OSはオペレーションソフト。その後に続くアイはバージョンを示す。」
今川は黙って岡田の方を見る。
「アイ。即ちあなたのことですよ。今川さん。署までご同行願います。」