第三十話

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第三十話
五の線2 第三十話
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喫茶BONのカウンターに男が無言で座った。マスターの森は何も言わずに彼にICレコーダーを渡した。
男はイヤホンを装着して暫くそれに聴き入った。時折イヤホンを指で押さえ、目を瞑り、ホットコーヒーをすすりながら。ものの7分程度であろうか、全てを聴き終わった彼はそのICレコーダーを懐にしまい、その代わりの端末を森にそっと渡した。
合わせて男はポケットから封筒を取り出しそれも森に渡した。
「こんなに?」
男は何も答えない。ただ北叟笑むだけである。
「あんたの頼みは断れないわ。」
古田は笑みを浮かべた。
「次はいつ来るんですかね?」
「だいたい週一ペースで来てるけど、次の来店日なんて分かりっこないわよ。」
「いつ頃からあいつここに通っとるんです。」
「そうね。1年前くらいからかしら。」
「マスターと喋ったりするんですか。」
「あたし?」
森は手を上げ首を振った。
「あ、そう。」
古田はそっけない返事をした。
「あの人すっごい魅力的でしょ。」
「あ、ああ。まあ。」
「ロマンスグレーで顎髭も良い感じ。上品で垢抜けて、どこか都会的。ここいらじゃいない感じのナイスミドル。」
「確かに顔立ちは男前ですけどな。」
「体型はおじさんそのものだけど、雰囲気がなんか違うわ。雰囲気違いすぎて、こっちから軽く声かけれんわいね。」
「ほう。長年この喫茶店を切り盛りしてきたあんたでもそんな感じになってしまう客っておるんですか。」
森は頷く。
「あんまりその手の人はおらんけど、時々はね。一見さんは特にこっちからは声かけることはないけど、常連さんであの人みたいなオーラ出す人はそうそうおらんわ。」
古田はぽりぽりと頭を掻いた。
「ねぇあの人何者?」
「マスター。あんたはワシが聞くことだけに答えてください。でないと今渡したその封筒の中身返してもらうことになる。」
「なにその上から目線。私はあんたっていう人間に惚れ込んで依頼を引き受けてんの。金なんか二の次よ。」
古田はやれやれとため息を付いた。
「マスター。ワシは生まれてこの方、そのけの方面には全くご縁がないもんでね。そっちの方は諦めてくださいよ。」
森は口に手を当ててクスクスと笑い出した。
「何勘違いしてんのトシさん。」
「ん?」
「あたしこう見えても妻帯者なのよ。」
「え?」
「子どももおれんけど。」
「へ?」
古田らしからぬ妙な声が出てしまった。
「あたしこうみえてもノンケよ。」
「じゃあなんでそんなオネエみたいな。」
「昔はデザイナーだったのよ。」
「デザイナー…。」
森はかつて東京でアパレルメーカーの服飾デザイナーとして活躍していた。メンズのみならずレディスのデザインも手がける職業であったため、女性の気持ちや感覚に敏感にならなければならなかった。当時彼はいろいろな女性と接点を持ち、彼なりに女性というものを分析した。
啓発書の類には「君の目はどこに付いている」という問いかけがある。人間の目というものは前を向いている。そのため仕事において常に前を向いて物事を見て思考し行動せよとの話がある。しかしそれはあくまでも一面的な話である。人間の視線というものはそんなに直線的なものではない。180度の風景が常に目に入るということはないが、それに近い見え方はする。特に標高の高い山頂に立った時に見える景色というのは、視覚に入ってくる情報のみならず、体全体で山頂からの眺望を感じることができる。澄み切った空気感。何一つ遮ることなく降り注ぐ日光。頭上には空と雲しかなく、ありとあらゆる物質的なものが自分の視線の下にあるという体感的なものが180度いや、360度のパノラマ視点を生み出すのである。
人間が主に狩猟で生活を営んでいた嘗ての時代、男は外で狩りをし獲物を捕まえてくる。その側面でみれば「君の目はどこに付いている」という発想はあながち外れていない。とにかく目の前の獲物を仕留めるために前だけを見ていればいいのである。
しかし狩猟の成果は常に上がるものでもなく、日によっては食料にありつけないこともあろう。女はそれを受け入れる側だ。狩猟の結果が出ない時期が続けば何かで食料を補わなければならない。そのために男どもが留守にしている間にこなす仕事は多岐にわたる。樹の実の採取であったり火をつけるための薪の用意かもしれない。獣の肉を燻製にすることかもしれないし、魚を干すことかもしれない。その辺りは狩猟を第一義的な仕事とする男と比べて視野は全方位的であり、そして包容的といえるだろう。狩猟を終え帰ってきた男どもの求めに応じて愛し合う行動をとるのも女性的包容力に富んだものなのかもしれない。
「で、女の気持ちとか色彩感覚とかを知るためにこんな風に形から入ったわけ。」
「へぇ。で、やっぱり見えてくるもんかね。」
森は頷いた。
「女はね、やっぱりアンテナが広いの。自分の見せ方もそうでしょう。」
「見せ方?どういうことですかね。」
「化粧なんて男はしないでしょ。スカートってアイテムは男は身につけない。ヒールのついた靴もちょっとした首元のアクセサリーも男にはご縁がない。洋服にしても所謂女の子らしいパステル調でまとめた色使いとか男なら絶対無理だし、髪型も男に比べて数限りないバリエーションがある。そうそう言葉もそうよ。このあたりが分からなくて服のデザインなんてできないわ。」
「ほう。奥が深いもんですな。」
「世に出てるデザイナー見てみなさい。結構な割合でそっちの人いるから。」
「ああそうなんですか。ワシはどうもその辺の業界には縁遠くてね。今度何かで見てみますわ。」
昨日と同じカメラマンジャケットを来ている古田は、その胸ポケットからタバコを取り出した。森はすかさずライターを取り出してそれに火をつけた。
「まぁ一応、そういうことであたしは男も女も、なんとなく理解しているってわけ。」
古田は煙を吸い込んで勢い良く吐き出した。
「大体普通の人間ってもんは、歳を取るにつれて格好とか結構どうでもよくなってしまうもんなの。トシさんみたいに。」
「ワシみたいに?ははは。」
「それがなぜだか分かる?」
「いや。分からんですわ。」
「人生経験が服の価値を超えてしまうのよ。」
「ほう。」
「国の要人とか、お偉いさんとかは有名ブランドの洋服とか身につけているけどそれはね、その人達の人生経験がそのブランドの価値と等価だってことなのよ。」
「うん?ちょっとよくわかんですな。もっとわかりやすく教えてもらえんですか。」
「人間の価値なんてもんはお金で測れない。私もトシさんもそこら辺のじいさんばあさんも、等しく人間として様々な人生経験をしているわ。それは国の要人も社長さんも同じこと。彼らにはお金がある。お金がある人は自分の人生経験を表現するために良い物を身に着けることができる。でも私らみたいなお金がない人は高くてそれを買うことができない。あたりを見てみればファストファッションとかあるけど、それじゃあ自分の人生経験を安く見せてしまうだけになってしまう。従ってその方面に関心を示さなくなる。それだけのことよ。」
「ファストファッションはマスターにとって悪とでも?」
「悪とは言わないわ。何事も需要があるから供給がある。市場があるから物が売れる。これは正解だと思うの。ただ残念なの。いくら小奇麗に見えてもファストファッションはファストファッション。特に全身をそれで覆い尽くした人にあんたはそんなに安っぽい人生を過ごしてきたのかって言いたくなっちゃうの。」
服装に無頓着であった古田にとってこの森の持論は新鮮だった。
「人は見た目が全てって言うじゃない。」
「あ、はい。」
「トシさん。あんたが持ってるその手帳。使い込み方が半端じゃないわ。」
森はカウンターテーブルに置かれた古田の手帳を指差した。
「で、何?そのライター。随分オンボロな感じだけど、ちゃんと手入れしてるみたいね。あの時からちょくちょくウチに顔出してるけど、いつもそのライター。」
タバコの箱の上に丁寧に置かれた金属製のライターを手にとって森は自分がくわえるタバコに火をつけた。
「手帳もライターもあなたがすっごい大事に使っているのがわかる。この二つはあなたの価値とほぼ同等の価値を持っているってことかしら。」
ライターを返された古田はそれを手に取り笑みを浮かべた。
「マスター。このライターはね。ワシって言うよりも、ある男の思いが込められた形見みたいなもんなんですわ。」
森は神妙な顔をしてそうか古田に共感を示し、煙を吹き出した。
「その男とあのロマンスグレーが何か関係があるって事なのね。」
古田静かに頷いた。そして独り言を呟いた。
「ワシに力を貸してくれ。村上…。」



守衛殺害の重要参考人である藤堂の情報を探るべく、ドットメディカルから出向しているエンジニア2人から総務部にある個室で事情を聴取していた佐竹は、席を立ちうろうろとしだした。
「事実君達が今のシステムを管理運用している。君らが情管に入ってからというもの、これといったトラブルも何もないし、その功績は立派なもんだ。そして次期システムの開発にも真摯に取り組んでいる。有難いと言うほかない。」
エンジニアのひとりである真田は無言で佐竹の言葉に耳を傾けた。
「しかし、ウチのシステムが誰かによって侵入され、社員の情報も改竄された。これは事実だ。君らが今回の事にまったく関わりがないとなると、どういった可能性が考えられるだろうか。」
「課長から報せを受けて、真田と昨日話していたんですが、思い当たるのはルートクラックです。」
真田と一緒に座っている武田が言った。
「ルートクラック?」
「はい。でもそれは情報管理課の人間にしかできません。」
「システム管理者ユーザーのアカウントでシステムに侵入し、山県部長の情報を藤堂に置き換えるしか、現状方法がありません。」
「やっぱり外からっていうのは無理か。」
この言葉に真田があえて言えばと言葉を続けた。
「既存のプログラムとかシステム運用の範疇で考えると、クラック事態あり得ない事です。ですがここにヒトがなんらかの形で介在すると可能性は広がります。」
「それは例えば何だ?」
「映画みたいな話になりますが良いですか?」
佐竹は頷いた。
システム運用的にはなんらのセキュリティホールはない。それは今日の早朝5時に出勤し、真田と武田が洗いざらい調査した結果だった。社内システムのアクセス情報を目を皿のようにして調べても何も不正は検出されなかった。例えばなんらかの方法でシステム管理者ユーザーのアカウント情報を入手し、行内の人間が社内システムにアクセスしたとしても、その痕跡は確認できるはずだ。しかしそういった動きも確認できない。そこで2人はある結論に達したようである。ひとつは行内の誰かが痕跡を残さずにクラッキングする能力を持っているということである。
「具体的にどういう方法があるかは分かりませんが、例えば金曜の勤務時に藤堂となんらかの繋がりがある人物がUSBとかを行内の端末に差し込んで、私らには検出不能な不正なプログラムを流し込み、部長の情報を書き換えた。そして藤堂が行内に侵入し、情報を復元。」
「そんなこと実際できるのか?」
「分かりません。もしもそれが出来るとすれば俺らを凌駕する知識と経験が必要ですし、システムを開発した開発元からの情報がないとまず無理です。」
「ドットメディカル?」
真田は頷いた。
「金沢銀行のシステムがウチのものに切り替わったのは3年前です。私も武田もこのシステム自体の開発には携わっていません。システム納入が決まり、仕様等のレクをドットメディカルから受けてそこから出向されているいちエンジニアです。なのでレクを受けていない部分の細かいプログラムまでは正直わからないことがあります。」
「で、もうひとつは?」
この佐竹の問いには武田が答えた。
「本システムにはシステム納入時に一定の要件を満たすと金沢銀行の経営企画部部長の情報を藤堂という男に書き換え、一定の時間が経つとそれが元の情報に戻るというプログラムが予め盛り込まれていたのではないか。」
「え?待て。武田。お前が入っていることはつまり、今回の情報の改竄と復元はシステム納入時に既に予定されていたプログラムだとでも言うのか?」
「課長。言ったでしょう。映画みたいな話って。」
佐竹は黙った。そして静かに口を開いた。
「どの道ドットメディカルが鍵を握っているか…。」
ふと佐竹は真田と武田を見た。彼らは紛れもなくドットメディカルからの出向者である。その彼らが何のためらいもみせずに、出向元を疑っていることに違和感を感じた。
「課長。俺らは事に仕えてるんです。」
「ん?」
「ドットメディカルに仕えているわけじゃないです。一応そっちの方面のプロ意識はありますよ。」
佐竹は2人のこの言葉に笑顔で応えた。
「自分らの疑いは自分らで晴らさないと。」
「守衛さんだけじゃなくって、小松部長も自殺する羽目になったんですから、絶対に原因を突き止めますよ。こんな事にケツ捲ってたら、人として終わりですよ。」
20代後半の彼らに佐竹は頼もしささえ感じていた。
「コンドウサトミの件はどう考える。」
この問いに真田が答えた。
「物理セキュリティを破ってまで抹消オペをするには、相応の時間がかかるでしょう。事件当日の時間関係を見てもそれはちょっと無理なような気がします。一番簡単なのは藤堂が小松部長が管理する承認キーをなんらかの形で手に入れて、淡々と抹消オペを実行したんでしょう。」
「承認キーを手に入れるか…。」
「物理セキュリティの壁さえなんとかすれば、抹消オペ自体はそんなに難しいことじゃありません。」
「でもウチのシステムの概略とかコードの事ぐらいは分かっていないとできないだろう。」
「そうです。」
「となると誰かが藤堂にシステムの事を手解きしないとできないって事か。」
「そういう事です。コンドウサトミの抹消オペに関する問題は、その人間が誰かという事を突き止めるのが重要な鍵となります。」
佐竹は分かったと言い、昼の休憩をとることを提案した。
「課長。部長って本当に自殺だったんですか?」
真田の唐突な質問に佐竹は言葉に詰まった。小松の自殺に関しては佐竹も不可解であった。普段と何も変わらない様子であった小松が突然熨子山で自ら命を絶ったからだ。しかしそれを確かめる術は今の佐竹には無い。なので今のところ佐竹にできる事は今日の晩の通夜に参列し、小松が死亡したという現実を直視するということぐらいしかない。
「藤堂が部長の承認カードそのものを仮に持っていたとすると、殺人の疑いが出てきませんか。」
「そうですよ課長。部長が急に自殺なんてどうも嘘くさいっす。」
真田と武田の言葉はまさに佐竹の気持ちを代弁したものであった。しかしここで彼らに同調してしまうと、2人に金沢銀行に対する妙な不信感を焚きつけてしまうことになるかもしれない。佐竹は言葉を呑んだ。