第二十九話

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第二十九話
五の線2 第二十九話
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とある大型スーパー。周囲の会社で勤務するサラリーマンやOLがフードコートを賑わせていた。スマホをテーブルの上に置き、画面を指でなぞってはラーメンをすする器用な中年男子がいたと思えば、制服姿の女性達が会話を楽しみながら食事をとっている。

その中でひとり昼食を済ませ、テーブルの下に手を伸ばす男がいた。彼の手の先にはセロテープで何かが貼り付けられているようだった。彼は表情を変える事なくそれを剥がし取った。そして食器トレーを所定の位置に戻しトイレの方向に歩みを進めた。
トイレ前のコインロッカーの前で男は立ち止まった。握っていた手を開くと、そこには先ほどのセロテープで貼り付けられていた鍵があった。彼はそれを差し込んで扉を開いた。
中には長形3号の封筒があった。羽織っていたブルゾンから1センチほどの厚みがある茶封筒を男は取り出して、それをロッカーの中のものと交換し小銭を投入し扉を閉めた。
不自然さはない。いつものことであるかのようなごく自然な振る舞いである。
彼はそのままトイレ中に入り洋式便器がある個室に篭った。
「ふーっ。」
髪の毛一本無い彼のスキンヘッドが露わになった。そして巻き取ったトイレットペーパーを使って、頭皮に滲み出ている汗をそれで拭った。次いで首筋にも流れるそれを拭い、汗でぐっしょりとなったトイレットペーパーを便器の中に投げ捨てた。
「暑ぃ。」
男は個室の扉の上部にコインロッカーの鍵を人目につかないようセロテープで貼り付け、水を流した。
手洗い場に立った男は周囲に誰もいないことを確認し、かけていたサングラスを外して鏡に映り込む自身の顔を覗き込んだ。そして顔に刻み込まれた皺を指でなぞった。
足音が聞こえた。人の気配を察知した男はサングラスを再びかけ、その場を後にした。
駐車場に止めてある軽四自動車に乗り込んだ時の事である。男の携帯が震えた。
「何だ。」
「受け取ったか。」
「ああ。」
男はブルゾンに仕舞い込んでいた先程の封筒を取り出し、その中を覗き込んだ。
「IDとパスだ。」
「そうみたいだな。」
「今日中に再度取り付けされる手筈だ。」
「仕事早いね。彼は。」
「ふっ必死なんだろう。」
「必死すぎるのも考えもんだぜ。」
「確かにな。少々功を焦っているようにも見える。」
「あんたがぶら下げた人参が随分なもん過ぎたんじゃねぇの。」
男は封筒の中にあったメモ用紙のようなものを手にした。
「なんだこれは。」
「どうした。」
「コンドウに直接会って礼がしたいと相馬が言っているって添え書きみたいなもんがあるぞ。」
電話の向こう側から舌打ちが聞こえた。
「おいあんた。橘に俺のこと教えたのか。」
「まぁコンドウサトミって奴がクライアントだってことだけは。」
「コンドウだけだな。」
「ああ。橘にはコンドウと直接的な接点は持たないことを条件に今回の依頼しているが、あいつは出過ぎたかな?」
男は暫し黙った。
「いや。良いだろう。」
「ん?」
「別に橘が俺に会いたいと言ってるわけじゃない。相馬が俺に会いたいって言ってるだけだろ。」
「まぁそうだ。」
「いいよ。会ってやるよ。」
「おい本当か?」
「まずいか?」
「いや、お前がオッケーならばそれで良いが。」
「ああ。オッケーだ。」
「ふうむ。やはり同胞は放ってはおけんということかね。」
男はこれには返事をしなかった。
「お前のことだから心配はしていないが。」
「何だ。」
「痕跡を残し過ぎるなよ。」
「それは俺の勝手だろ。細かい指示はしないって約束の筈だ。」
「ああ悪かった。気を悪くするな。」
男は封筒を懐にしまった。
「今日中にカメラ設置させるんだろ。」
「そういうことだ。」
「じゃあそれが終了したらでいいよ。」
「それはそうとお前、片倉に電話かけただろう。」
「ああ。」
「何でそんなことするんだ。」
「何だよいちいち細かい指示すんなって言ったろ。」
「いや何かの弾みでこっちまでマークされでもしたら都合が悪くなる。控えてくれないか。」
「何だ。変な動きがあるのか。」
「お前が片倉を襲ったことが直接関係あるかは分からないが、金沢銀行の重役が動き始めたようだ。」
「重役?誰だ。山県か?」
「いや専務の加賀辺りらしい。」
「加賀…。」
「加賀が仁熊会とドットメディカルの関係性を調べ出した。」
「それはどういう事を意味するんだ。」
「マルホン建設買収の為のドットメディカルへの融資案件握りつぶし。」
「あー難しい。経済の話は俺は苦手だ。」
「ドットメディカルが反社会勢力とコネコネな部分が明らかになると、融資が実行されない。つまりドットメディカルがマルホン建設を買収してその勢力を確実なものにする邪魔をするってことだ。」
「何?」
「マルホン建設を買収することは、ドットメディカルの基盤を石川県に於いて強化する重要な戦略のひとつだ。北陸一のゼネコンを新興企業が買収することで、ドットメディカルの権威は一気に高まる。また既に力は衰えたとはいえ、かつて集票マシンとしてその名を轟かせた、あの会社の実力はいまだ健在。マルホン建設を手に入れることは我々にとっての革命の橋頭堡となるんだ。加賀が警察と連携をとっているという話は今のところこっちには入ってきていないが、仮にそこを突かれるとドットメディカルの信用失墜はおろか、お前に渡し続けている潤沢な資金も止められることになる。」
「くそっ。」
「お前が同胞達を救済する原資が無くなるという事だ。」
「加賀の野郎…。」
「消せ。」
「待て。」
「なぜ。」
「あからさまだ。」
電話の向こう側の男は黙った。
「あんたこそ焦ってるんじゃねぇのか。」
「ではお前に何か策があるとでもいうのか。」
「橘をもっと利用しろよ。」
「ふうむ。」
「あいつ融資部の副部長だろ。部長は誰だ。」
「小池田だ。」
「じゃあそいつを消すか。」
「なるほど。人参を先に与えるって事か。」
「ああ。」
「小池田の行動を分析する。こちらから指示があったら動け。」
「わかった。」
「相馬の件は任せろ。折を見てお前と引き合わせる。」


「うまい。」
「ほやろぅ。」
相馬の率直な感想に長谷部は得意げな表情を見せた。
「なんちゅうか。俺、どう表現していいか分からんけど、蕎麦ってこんなに美味いもんねんな。」
「おめぇ普段何食っとれんて。」
「周のことやしカレーとかラーメンとか唐揚げみたいな味の濃いもんしか食べとらんげんろ。」
長谷部のツッコミに同意する女性がいた。片倉京子である。
「なんねん。寄ってたかってツッコンで。いつから俺はそんなキャラになったんや。」
「味の濃いもんしか食べとらんから、人の気持ちに淡白ねんわ。」
「あ、それとなく相馬のことdisってる?」
笑いが起こった。3人の明るいやり取りとは裏腹に岩崎は黙々と蕎麦を啜っている。
当初は長谷部と相馬、岩崎の3名で食事に行く予定であった。3名は長谷部が車を止める大学付近の駐車場で落ち合った。車に乗り込み駐車場を発つときである。とぼとぼとひとりでキャンパスを後にする京子を相馬が見かけた。相馬は長谷部に彼女も一緒に誘いたいと申し出て、岩崎も了承したことから、この4名は今、白山麓のとある蕎麦屋で会食をしているのであった。
「岩崎さんはどう?」
長谷部が岩崎に話題を振った。
「あ、うん。」
あまり反応が無い。
「この手の本格的な蕎麦屋ってはじめてなん?」
「うん。学食のお蕎麦みたいのしか食べたことないの。」
「あれは蕎麦じゃないよ。蕎麦みたいなもん。どっかの工場で作られた工業製品。」
「その工業製品を美味いと思って食っとった奴もここに居れんけど。」
相馬が長谷部に言った。
「マジで?」
「おう。悪りぃか。」
「あの...私もだけど...。」
この岩崎の思いがけない援護に気を良くした相馬は、どうだと言わんばかりに長谷部に見下ろすような視線を送った。
「あれはあれ。これはこれ。こういうお蕎麦もあるって事でいいがいね。」
京子がこの言葉で場をまとめた。
食事を終え、相馬はいつものように助手席に乗り込もうとした。
「だらっ‼︎」
「えっ?」
「違うやろ。」
「あっ。」
そうだ。ここに来る道中も助手席は岩崎の指定席だった。相馬は悪いと言って岩崎に席を譲った。
蕎麦屋を出た長谷部の車は手取ダムに向けて進んでいた。
「おい。」
「何や。」
「何かおもしれぇ話でもねぇが。」
「あ?」
「ほら後ろ。」
長谷部はルームミラーを見て顎を上げた。
「何か2人で盛り上がっとれんけど。」
「知らん。いいがいや。楽しそうねんし。」
「おめぇが助手席に座るの頑固に拒否ったら、こんなに展開にはならんかった。」
「知らんわいや。」
憮然とした長谷部であったが、ルームミラーを再び見て表情を緩めた。
「すごーい。」
「そう?」
「ほら、これなんかまんまやもん。」
「誰かわかる?」
「誰が見てもこれベーさんやがいね。」
べーさんとは社会学の教鞭をとる渡辺教授の愛称である。彼の個性的な風貌を知らない学生はいない。髪の毛を七三どころか九一若しくは十をそのまま横に持っていったような髪型が注目の的だった。遠目で見ると渡辺の頭にUFOのような円盤がそのまま乗っかったような髪型である。風が吹く日はその流れを計算しつつ頭髪の分け目を常に風上に位置させるため、時としてカニ歩きのような不自然極まりない動きを彼は見せていた。細身の体つきに関わらず、だぶっとしたダブルのスーツを身につけていることが多い渡辺は、細い目でありながら銀縁の大きなレンズのメガネをかけている。何もかもがアンバランスな外見だ。
「岩崎さんってひょっとして入る学校間違えたんじゃないん?」
「え?」
「なかなか似顔絵って描けんよ。ほら私、絵のこととかよく分からんけど、写生とかじゃないがいね。とにかくリアルに描くってんじゃなくて、岩崎さんのはこう、なんって言うか、ほら、余白が多いやろ。」
「うん。」
「線の数が極端に少ないけど、その人の特徴がよく分かる。」
「そうかなぁ。」
「岩崎さんやったら美大に行ったら面白いことになったかもしれんよ。」
「美大?」
「高校の先生に言われんかったん?」
「…うん。」
「じゃあその先生はふし穴やね。」
「何盛り上がっとらん。」
余りにも後席が盛り上がっているので相馬が声をかけた。
「ほらほら見て。」
後席の京子が助手席に座る相馬にノートを渡した。
「あ、ベーさんや。」
「ほらー。」
「え?これ岩崎さん描いたん?」
「うん。」
「すげェ。他のも見ていい?」
「あ、うん。」
相馬はノートをめくった。いろいろな人物の似顔絵が描かれている。相馬が知らない人間ばかりだったが、大学関係者のものも何点かあった。
「あっこれ下間や。」
「え?どれどれ。」
そこにはハゲ頭で鼻眼鏡している下間の姿があった。
「すげェ。岩崎さん。あんた才能あるよ。」
「…ありがとう。」
「あ、そうそう。岩崎さんって下間先生のところに出入りしとる?」
京子が切り出した。
「…うん。」
「下間先生って原子力工学やがいね。なんか岩崎さん勉強でもしとらん?」
「…一応、原発問題とか勉強してみようって思って。」
「本気で?すげェ。」
「そろそろ卒論のこと考えようかなって思って、資料とか見せてもらってるの。」
「ほらほら、君たち。」
ハンドルを握っている長谷部が言った。
「岩崎さんは君たちとは違うのだよ。君たちとはね。」
「なんねん。お前はどうねんて。」
「俺も昨日から卒論の準備をし始めた。いいか、原発には二通りある。沸騰水型と加圧水型の…。」
でた。熱しやすく冷めやすい長谷部の真骨頂だ。彼はにわか知識の原発について語り始めた。
「ねぇねぇ。岩崎さんって何でこの大学に入ったん。」
長谷部の講釈を他所に京子は岩崎に質問した。
「え?」
「絵も描けるし勉強もできる。それでなんて言っても美人。そんな人がうちみたいな地方の大学におることが不思議ねん。岩崎さんくらいやったら東京の方の国立大でも楽勝でいけたんじゃないが?」
「お父さんがここにしろって言ったから…。」
「え?お父さん?」
岩崎は頷いた。
「え?岩崎さんって東京の人じゃなかったっけ。」
「うん。でも勉強するなら都会みたいな誘惑がいっぱいあるところじゃなくて、娯楽がない田舎でしっかり勉強しろって言われて。」
「あ…それって密かに石川のことdisってる?」
「え?あ、ごめんそうじゃなくて…。」
「ははは。冗談よ。冗談。うそうそ。」
「ごめん。」
「なんか面白いね。岩崎さん。」
「そう?」
「せっかくこうやって一緒になったんやし、いろいろ話して仲良くなれたらいいな。」
岩崎はしばらく京子の顔を見て軽く頷いた。
「おい。長谷部。手取ダムはまだかね。」
先程から相馬に原発についての講釈を垂れている長谷部を遮るように京子は言った。
「でな、問題はさ、いざ何かの天災があっ…。え?」
「まだかね。ダム。」
「あ、ああ。もうちょっと。」
「長い話よりもそろそろ外の空気が吸いたいんですけど。」
京子は長谷部が手にする吸いかけのタバコを指差した。
「あ。」
長谷部は即座に灰皿にそれを捻りつけて火を消した。そのやり取りに車内に笑いが起こった。