12月21日 月曜日 11時12分 金沢銀行金沢駅前支店

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12月21日 月曜日 11時12分 金沢銀行金沢駅前支店
第六章 1
五の線 第五十四話.m4a.mp4
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事業所融資の稟議書をパソコンに向かって作成していた佐竹は行内にある時計に目をやった。時刻は11時を回っていた。目、肩、腰に疲労を覚え始めていた彼はいったん手を止めて、両腕を天井に向けておもいっきり体を伸ばした。その時、自席の後方に位置する支店長席を見ると山県の姿は確認できなかった。山県は朝から店を出たきりだ。連絡も何もない。

「支店長まだ帰ってこんな。」

自分の隣に席がある橘がつぶやいた。

「そうですね。次長。融資部から連絡ありましたか。」

「いいや、何にも。」

「なんでこのタイミングで支店長はあんなことになったんですかね。」

「ほんなもん分かるかよ。」

橘は窓口業務につきものの検印を押しながら佐竹の問いかけを適度にあしらった。

「でもな、支店長言っとったやろ。」

「はい?」

「奇襲って。」

「ああ、そうですね。あの奇襲って一体何に対する奇襲なんですかね。」

「小さな勢力が大きな勢力に立ち向かうときに有効な手立てって言っとったやろ。そこら辺ちょっと考えてみてみろよ。ああ、高橋さん。この改印届けオッケーね。」

「あんまり考えたくないんですが、権力闘争とかってやつですか。」

橘は苦笑いし佐竹を見る。

「それやと思うよ。」

「まじですか。」

「マジやと思う。代理、お前はまだ何も考えたことないかと思うけど、あたりを見回してみろよ。」

佐竹は素直に店内の周囲を見回した。店の一番奥に支店長席。その前に自分と次長。その左側には融資係。右側にはパーテーションで仕切られた区画がありそこは営業部隊のスペースであるが、この時間には誰もいない。前衛には預金、為替、年金、投信、各種手続きをを担う窓口業務を行う女性行員が慌ただしく来店客の対応をしている。いつもの風景だ。

「金沢銀行のいまの実力者はだれか知っとるよな。」

「本多専務ですか。」

「そうや。代理から見て左側の融資係、右側の営業係。どちらの長も専務の直参や。」

「ええっ。」

「なんやお前。本当に何も知らんげんな。」

会社ごとにその構造は違うだろうが、なぜか銀行という世界は派閥を作りたがる。

学歴によるものもあれば、縁故地縁によるものもある。仕事に対する価値観で派閥を形成するケースもあろう。人事考課制度という明文化された評価基準は整備されているが、金沢銀行ではその運用方法が特殊であった。上位考課者による主観的評価のウェイトが非常に重い制度となっていた。この前近代的で硬直化した組織において出世をする際に重要となる要素のひとつは組織内営業。すなわち組織内で上司にいかに気に入られるかということが重要となる。仕事本来の実績は確かに重要であるが、結局のところ上司の胸先三寸によるものが大きいため、それはさしたるものではなかった。

金沢銀行では本多慶喜率いる派閥が圧倒的多数を占めている。この中で出世をするには彼らの信任を得ることが第一条件だった。

「俺ダメなんですよ。そういうどろどろした人間関係が。」

「わかるよ俺も一緒や。でもなぁ。」

「でも?」

「代理は結婚もしとらんし、子どももいない。気を悪くせんと聞いて欲しんやけど、今この瞬間に代理は職を失ったとしても、年齢もまだ若いし何とかやっていけるかもしれん。でも、俺みたいに家庭を持って年頃の子どもとか抱えて住宅ローンもあったりすると、そういうわけにもいかんのよ。」

「守るものがあるってやつですか?」

「そういうこと。俺も派閥とか出世とか下衆な人間関係はごめんや。それでも家庭を守るために時として派閥の人間に肩入れすることだってあるわいや。」

「…だとしたら、今回のマルホン建設の件、次長も気が気じゃないでしょう。」

「何か分からんけどなるようになると思ってきたわ。こっちは取り敢えず本部の言うとおりのことしたし、派閥の人間には対面保ったやろ。」

「でも支店長には黙ってやりましたよ。」

「代理さぁ。俺思っとるんやって。」

「何をですか。」

「支店長、俺らがこうやることを想定して引き出しに鍵かけんと出て行ったんじゃないかって。」

橘は空席のままの支店長席を眺めた。

「支店長としてはマルホン建設の融資はもうしたくない。しかしそのために部下を巻き添えにしたくない。電話で小堀部長にあんなに強く言ってもきっと融資部は稟議上げろと指示してくる。そのために自分が目を通していない稟議書をゼロから書いて本部に上げてしまうと、部下が独断専行で融資を起案したように捉えられるおそれがある。それなら実際支店長自らが目を通した稟議をそのままはんこがない状態で本部へ上げた方が体は良い。あとは本部が独断専行でやったことってな。」

「なるほど。」

佐竹は思わず手を叩いた。

「俺達は今回のマルホン建設の融資には一切タッチしていません。ただ言われたとおりにやれと言われたことをやっただけ。その証拠はちゃんと残していますからねってな。」

「となると次長。これは面白いことになってくるんじゃないですか。」

「なにが?」

「だってこれは支店長の専務派に対する宣戦布告みたいなもんでしょう。専務の実家のマルホン建設の融資については今後一切タッチしませんよ。追加の融資もしませんよって意思表示でしょう。だから責任は全部おたくでよろしくって。」

橘は呆れた顔で佐竹を見る。

「代理。お前もうちょっと賢い人間やと思っとったけど、案外そうでもないんやな。」

佐竹はむっとして言った。

「何がですか。」

「小堀部長が言っとったやろ。もう庇えんって。あれは小堀部長が専務派ながら影で山県支店長を支えていたってことやろ。今後はその歯止めがきかんくなる。専務派の攻勢が一気に始まるってことや。」

「どういうことですか。」

「切り崩しに来る。既に融資係と営業係は取り込み済み。山県支店長を孤立化させるために俺とか代理とかを取り込みにくるぞ。他人事じゃ済まされんぞ。」

「ちょっと待ってくださいよ。そういう変な派閥とかが嫌いだから俺は中立でいままで仕事をやってきたんですから。」

「代理さ。これがこの世界の常識ねんぞ。立ち振舞を間違えたら俺みたいに万年次長止まりとか、窓際、出向だってある。」

橘は45歳で次長になった。同世代の入行組でも比較的順当に昇進してきた部類であったが、次長になってからというもの、10年間一切の昇進をしていない。方や橘よりも遅くして次長になった連中でも専務派といわれる派閥に属している連中は支店長や本部の役付けで活躍していた。これも派閥の力学がさせるものなのだろうか。

「次長はどうするんですか。仮に専務派が攻勢に出てきたら。」

「…さあな。その時はその時や。さすがの俺だって生活があるからな。ただあいつらから見れば俺らは山県派として見られているのは間違いないからな。」

佐竹は不安になった。橘から「お前は独り身だから何が起こってもある程度の融通がきくだろう」と言われたが、そんなに自分の置かれた状況は楽観的なものではない。確かに家庭をもった人間から見れば守るものもさほど無いように見えるだろう。だからといってしばらく俗世と距離置けるほどの蓄えもない。佐竹にはやはり毎月の決まった収入は必要である。36歳。転職・再就職には絶望的な年齢だ。さらに金融機関の仕事は他の業界でつぶしが利かないことで有名であることが佐竹の不安心理を助長させた。

「佐竹代理。派閥に入り込んだらそれはそれで派閥内の権力闘争がある。入らずに中立でいたらこれだ。お前ならどっちがいい?」

佐竹は橘の問いかけに答えることができなかった。

「権力闘争はえげつないもんよ。結局のところいかに気に入られるかということよりも、いかに他人を出し抜くかってところなんだ。仕事の上で価値観を共有する仲間といえる者はできない。表面上はいい面しておいて、後ろを向いてあっかんべー。クソみたいな人間関係だよ。」

「そんなクソみたいな権力闘争を勝ち抜いても、信頼出来る仲間がいない。そうなれば仮に出世したとしても辞めるまで延々と他人を引きずり落とすことしか考えなくなる。そんなのはゴメンですね。」

橘は佐竹の言葉に笑みを浮かべた。

「次長。ここは銀行です。人から預かったお金を必要としている人に貸す。ただそれだけの仕事をする場所です。そこにわけの分からない派閥とか権力闘争とか温情融資とかお家の事情を持ち込むことが異常なんです。」

「代理…。」

「やりましょう次長。俺達は俺達の銀行員としての筋を通しましょう。」

ため息をついた橘はどこか呆れ顔だったが、佐竹の言葉に嬉しさを感じているようにも見えた。

「お前、本気になったな。」